苦にどう対処するか
卒業を控えた大学生らに就職情報会社マイナビが調査したところ、今年の就活を表す漢字の位置は、「苦」だったというのであります。
「難」、「迷」も上位に居座ると書かれていました。
編集手帳には、「今も、苦難に耐えて迷う人がいるだろう」と書いていました。
若者達が「苦」の一字を選ぶとは、心が暗くなります。
苦とは、仏教では、もともと、「不安定な、困難な、望ましくない」という意味です。
岩波文庫の『ブッダが説いたこと』には、
「一般的には苦しみ、痛み、悲しみあるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。」とあり、
それは「普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。」と説かれています。
仏教は苦を、苦苦、壊苦、行苦の三苦に分けています。
「苦苦」は肉体的苦痛を言います。
「壊苦」は損失による精神的苦痛を表します。
一般に用いる苦の意味に最も近いものです。
『ブッダが説いたこと』には、
「老い、病い、死、嫌な人やものごととの出会い、愛しい人や楽しいこととの別れ、欲しい物が入手できないこと、悲痛、悲嘆、心痛といった、人生におけるあらゆる種類の苦しみは、普通の意味での苦しみである。
人生における幸福感、幸せな境遇は、永遠ではなく、永続しない。それらは、遅かれ早かれ移ろう。そしてものごとが移ろうときに、痛み、苦しみ、不幸が生じる。この浮き沈みは、移ろいによって生じる苦しみ」
であると説かれています。
この二つは、理解しやすいのです。
思うように就職できないのもこの苦しみであります。
この二種類の苦しみは容易に理解できますが、問題は「行苦」であります。
岩波書店の『仏教辞典』には
「一方、仏教は生れたままの自然状態、すなわち凡夫(ぼんぶ)の状態は迷いの中にある苦としての存在と捉え、そこから脱却して初めて涅槃という楽に至ると考えて、この迷いの世界のありさまを「行苦」と表現します。」と説明されています。
要するに悟っていない状態は苦だというのです。
因縁の和合により生じる一切のものは、生滅によって圧迫され、常に状態を安定することができず、執着する人に苦を生じさせるのです。
佐々木閑先生の『仏教の誕生』のなかにも、
「お釈迦さまが確信なさった仏教の基本的世界観は、「生きることは苦しみである」ということです。
楽しみがあるように思うけれども、ベースは苦しみだというわけですね。苦しみの上に、泡沫のようにわずかなる喜びが湧いて出てくるので、それを我々は生きる糧にしているわけですが、しかしやはりその奥を覗き込むと、人生の一番の大本には苦しみが横たわっている。」
とはっきりと書かれています。
これが仏教の一番原点なのです。
若い人たちが、今の状況を「苦」であると感じていることは、辛いことのように思いますが、仏教的には、極めて真実に触れているのだとも言えます。
佐々木先生は、
「「生きることは苦しみだ」というこの世界観は、世間受けするものではないけれど、しかしよくよく考えてみればそのとおりだと思わせる深い世界観だと思います。
そして、その苦しみの世界の中にいる私たちは皆平等です。」
と説かれています。
「人間はすべて平等に苦しむのだ」ということを説かれているのです。
決して、自分だけが苦しんでいるわけでもなく、今の時代だけが苦しみなのでもないのです。
では、苦の世界をどう生きるかというと、「忍」の一字であります。
中江藤樹に「題忍字」という詩があるのを、寺田一清先生から頂戴した『一粒一滴』で知りました。
一たび忍べば七情、皆中和。
再び忍べば五福、皆聯びあつまる。
忍んで百忍に到れば、満腔の春。
凞凞たる宇宙、すべて真境。
というものです。
七情とは、「人の七つの感情。『礼記』礼運に、喜・怒・哀・懼(く)・愛・悪・欲の七つをいうと見える。これは中国の古典にしばしば出る喜・怒・哀・楽・愛・悪の<六情>に懼を加えたもの。」
ということです。
これら七つの感情に振り回されるのですが、それが忍ぶことによって、中和されるのです。
五福とは、「人生の五種の幸福、すなわち寿命の長いこと、財力のゆたかなこと、無病なこと、徳を好むこと、天命をもって終わること。」です。
忍ぶことによって、これら五つの幸福が生み出されるのです。
いくたびもいくたびも忍ぶことによって、満腔の春も来るのです。
坂村真民先生の「七字のうた」を思い起こします。
七字のうた
よわねをはくな
くよくよするな
なきごというな
うしろをむくな
ひとつをねがい
ひとつをしとげ
はなをさかせよ
よいみをむすべ
すずめはすずめ
やなぎはやなぎ
まつにまつかぜ
ばらにばらのか
という詩であります。
苦の中にあって、弱音を吐かず、泣きごとを言わず、自分の願いを持って生きるしかありません。
やがて、きっと花が開くのです。
読売新聞の編集手帳の終わりには、歌人栗木京子さんの和歌
ふうわりと身の九割を風にして蝶飛びゆけり春の岬を
というのが記されていました。
「来春にはきっと、羽根を広げてふわりふわりと風に乗る」と締めくくられていました。
真民先生に「蝶」という詩があります。
蝶は一気に
海へ向かって
飛んでいった
蝶のなかに
何が起こっていたのであろうか
というように、何かが起こって飛び立つことがきっとあるのです。
十月も今日で終わりでございます。何かがきっとあるんだと希望を持っていきたいものであります。
横田南嶺