暑さ寒さの無いところ
あまり急に涼しくなるものですから、寒いと感じるほどであります。
ほんの少し前まで、暑い、暑いと言っていたのが、いつの間にか寒いと思うようになりました。
修行時代には、冬物など着ることもなかったものですが、この頃は全く駄目になって、急いで冬物に入れ替えたものでした。
暑いといっては暑がり、寒いといっては寒がる、人間というのは、なかなかどうしようもないものです。
かつて北海道から修行に来ていた者がいました。
極寒の地で生まれ育ったのだから、鎌倉の冬くらいは、平気だろうと思っていましたら、むしろ、他の者よりも寒がっていました。
北海道に比べたら、暑いくらいだろうと言うと、北海道は寒いので、室内は完全に暖房がきいていて、寒さを感じないし、外に出る時には、完全に防寒をして出るので、そんなに寒いと思わないのだということでした。
むしろ、鎌倉程度のところでも、素足で薄着でいるのが寒いと感じたらしいのでした。
そういうこともあろうかと思いました。
『碧巌録』にある問答を思い起こします。
第四十二則です。
僧洞山に問う、「寒暑到来、如何が回避せん」。
山云く、「何ぞ無寒暑のところに、向って去らざる」。
僧云く、「如何なるかこれ無寒暑の処」。
山云く、「寒時は闍黎(じゃり)を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」。
というものです。
難しい言葉は、「阿闍梨」ですが、岩波書店の『仏教辞典』を参照しますと、
「阿闍梨
サンスクリット語アーチャリヤの音写<阿闍梨耶(あじゃりや)>の略。漢訳では<軌範師(きはんし)><正行(しょうぎょう)>などと訳される。弟子を教導する師匠の意味。」
という解説があります。
今でも「阿闍梨様」などというといかにも高僧を指す敬称として用いています。
ただ、ここでは、僧のことを表していて、質問した僧自身を指しています。
そこで、岩波書店の『現代語訳 碧巌録 中』には、
次のように訳されています。
僧が洞山に問うた、「寒暑が来たら、どう避けましょうか」
洞山「どうして寒暑の無いところへゆかぬ」
僧「寒暑のない処とはどんなところですか」
洞山「寒い時には、そなたを凍え切らせ、熱い時には、そなたをこの上なく熱くするのだ」
ということです。
註には、
「寒い時には寒さに徹底し、暑い時には熱さに徹底せよ、寒中に熱あり、暑中に凉ありの意。寒さ暑さに徹底すれば、並みの寒暑は苦にならず、避けるに及ばぬということ。寒暑を生死の悩み、煩悩と見なすこともできる。「殺」は、動詞の後について、その程度のはげしさを現わす。愁殺、痛殺などと同様に、とうていやりきれぬ気分を添える。」
と書かれています。
「熱殺」「寒殺」というと物騒な言葉ですが、「殺」には、殺すという意味の他に、「動詞のあとにつけ、たまらないほどひどいの意をあらわす接尾辞。」であって、「笑殺(たまらないほどおかしがる)」「愁殺(心細くてやりきれないようにさせる)」という用例があります。
寒い時には、この上なく凍えさせる、暑い時にはこの上なく暑くするということでありましょう。
後にとある本山の管長さまになられた老師が、修行時代に円覚寺の僧堂にいらっしゃって、十二月の大摂心の時に、寒い中を僧堂の裏にある池に、裸になって入って、首だけを出して、池の中で坐禅していたという話を老僧から聞いたことがありました。
こんなのが、「寒殺」でありましょうか。
それにしてもまねのできるものではありません。
山田無文老師は、『無文全集第二巻』の中で、
「寒い時にはナア、寒さになりきってしまうのじゃ。暑い時にはナア、暑さになりきってしまうのじゃ。そこが無寒暑のところだ」と。
これは、実に理論的からいうても一分の隙もない立派な答えである。」と言っておいて
「寒い時には、素っ裸になって水でもかぶらっしゃい。暑い時には、炎天へ出て野球でもやらっしゃい。そこが無寒暑のところだ。」
と説かれています。
更に
「イランのような、砂漠で焼けつくようなところでは、素焼きの壷に水を入れて炎天へ出しておくそうだ。素焼に浸み込んだ水が蒸発をする時に、水の中の熱を奪うから、中の水がいつも冷たいのである。実に合理的だ。暑い時には日蔭に引っ込んでおらんと、外へ出て汗をかけば、汗が体熱をいっしょに奪って出るから、あとが涼しくなる。寒い時には、炬燵に入っておらずに、外へ出て風に吹かれるか、水でもかぶれば皮膚が反射的に収縮し、体温が外へ出んようになるからあったかくなる。合理的だ。」
と独自の説を述べておられます。
朝比奈宗源老師は、『碧巌録提唱』の中で、
「寒いときは寒い一枚、暑いときは暑い一枚、禅宗では寒さになりきり、暑さになりきれと言います。だが暑さ寒さはさておいて、さあ断末魔、いよいよ命がないという時に到った。さあどうする。「生死のない所へ行けばいいじゃないか」というのです。」
と説かれていて、暑さ寒さの問題から人間の生死の問題に敷衍させています。
生死の問題を前にすれば、暑いの寒いのなどとは取るに足らない問題とされましょう。
朝比奈老師は
「生も死もない所とは何所ですか。生きている時は生きておる。死んだ時には死んだ。良寛じゃないが、病気のときは病気するがよろしい。死ぬときは死ぬのがよろしい。死ぬときは死ぬだけです。生きている間は生きているだけです。こういうのです。
そう言ってしまうと禅宗って、まことに頼りないみたいだ。だが人間がどんなにじたばたしたとても、この肉団に付いている以上は死なない手なんてありやしない。しかし、ここで死ぬのをこわがり生きていたいという奴を、本当に究めてごらんなさい。死にたくないという奴にも、生きていたいという奴にも、そんな意識に実体はない。みんな夢みたいなものです。」
と述べてくださっています。
では更に「無生死の處」とはどういうところかというと、
「私は、佛心には生死がない。佛心には罪も汚れもないから、いつも浄らかである。いつも静かであり、いつも安らかである。佛心は宇宙いっぱいだ。人間は佛心から生まれ、佛心の中に住み、佛心の中に息を引取る。生まれる前も佛心、生きている間も佛心、死後もまた佛心、どこでどんな死に方をしても佛心の真只中だとこういうのです。お互いがどんな条件でどんな死に方をしても、佛心からははずれない。暑い寒いといって騒いでも、その心にも実体はない。」
と説かれています。
というわけで、生も死も仏心の中、暑いも寒いも仏心の中と心得て、お互い風邪を引かぬように寒さに対応してまいりましょう。
横田南嶺