何も思わぬが仏のけいこ
至道無難禅師は、慶長八年西暦一六〇三年に美濃国関ヶ原にお生まれになり、延宝四年西暦一六七六年にお亡くなりになっています。
妙心寺にも住された高僧愚堂国師のお弟子であり、正受老人のお師匠さまであります。
妙心寺の愚堂国師、そして至道無難禅師、正受老人、そうして白隠禅師へと禅の教えが伝わって今日に到るのであります。
無難禅師は、関ヶ原の本陣といって貴人が泊まる公認の大旅館の長子として生まれました。
後に無難禅師は、ご自身のことを「予は美濃国関ヶ原の番太郎なり」と称しています。番太郎というのは、火の番や盗人の警戒をする者のことですが、これは自身を卑下して言ったものです。
美濃国の人である高僧愚堂国師が、京都から江戸へ行く途次には、家に招いて教えを受けていたのでした。
愚堂国師は、まだ出家する前の無難禅師に「本来無一物」の公案を与えていました。
無難禅師は、何をするにつけてもひたすらに「本来無一物」と工夫していました。
ようやくこの公案を透過して、愚堂国師から「劫外」という法号を与えられました。
あるときに、愚堂国師が関ヶ原の宿にお泊まりになったときのことです。
たまたま無難禅師は外出中でした。
家の者は、思いあまって愚堂国師に訴えました。
それは無難禅師が酒に溺れて乱行が多くて皆が困っているということでした。
無難禅師が尊敬している愚堂国師から是非とも厳しく注意して欲しいと願ったのでした。
愚堂国師は了解して、酒樽を用意して主である無難禅師の帰りを待ちました。
夜更けて門を叩く者があります。
無難禅師が酔っ払って家に帰り、家の者たちを罵り、怒鳴り散らしています。
愚堂国師は、それを御覧になって、わざわざ玄関まで迎えて、「長らく待っていましたぞ」と告げました。
驚いたのは無難禅師であります。
平素尊敬している国師が目の前にいらっしゃるのです。
恐縮する無難禅師に、愚堂国師は「皆の話をきけば、近頃あなたは酒の度を超して、皆に迷惑をかけているらしいではないか、今夜はとことんまで酔わせてあげるが、もしもあなたに男児の志があるのなら、ここで最後の酔いを尽くして、今後キッパリ酒を断て」と言ったのでした。
無難禅師は頭をたれて「もとより願うところであります」と夜通し飲みあかして朝を迎えました。
翌朝愚堂国師がお出かけになるのを見送ってゆきました。
数里見送り、愚堂国師が、もう帰るようにと言っても、無難禅師は、「私にはもう跡継ぎがおりますから、家に帰る必要はありません」と言って、そのまま江戸までついて行ってしまいました。
関ヶ原の自宅で酒に乱れた行いをしていたのは、出家する為に、わざと家の者に愛想を尽かせたものだとも言われています。
そうして愚堂国師のもとで出家しました。
その時は、承応三年西暦一六五四年、無難禅師五十二歳でありました。
至道無難の名をいただいていたのは、出家よりも少し前の頃だとも言います。
かの正受老人が参じた頃には、菰を敷いて暮らしていたと言いますので、実に枯淡な暮らしをしていらっしゃったのでした。
正受老人が十九歳の時、飯山から来て出家したのは、無難禅師五八歳の時でありました。
当時は至道庵主と号していました。
六五歳の頃には、東北寺の開山となるように勧められますが、辞退しています。
そして、数え年七十四歳でお亡くなりになっています。
仮名法語が残されていて、その内容がすばらしいものです。
実に簡潔で分かりやすくそれでいて真実をついています。
昨日主人公の話で紹介したのは、いつも会うことのできない女性に与えた法語であります。
原文は
一 人は家を作りて居す。仏は人の身をやどとす。家のうちに亭主つねに居所あり。ほとけは人の心にすむなり。
一 じひにものことやはらかなれは、心明なり。心明なれは、仏あらはるるなり。心を明にせんとおもはば坐禅して如来にちかつくへし。
一 くふうしてわが身のあくを如来にさらせよ。かくのことくつとむる事たしかなれは、仏になる事、うたかひなし。
というものです。
意訳しますと、
一、人は家を作って住みます。仏は人の身を宿としてそこにお住みになっています。家の中に亭主(主人公)はつねに居所を持つています。仏は人の心の中に住んでいるのです。
一、慈悲の心によって、ものごとが柔かに行われれば、心は明らかになります。心が明らかになると 、仏が現れます。
一、心を明らかにしようと思ったら、坐禅をして仏に近づくがよろしい。
一、工夫して自分の身の悪を仏に明らかに示しなさい。このように努めることが本当になれば、仏になることは疑いありません。
というものです。
分かりやすく、私たちの中に仏様がいらっしゃることを説いてくださっています。
また法語に、
一 常に何もおもはぬは、仏のけいこなり。
一 なにもおもはぬ物から、なにもかもするかよし。
いきなから死人となりてなりはてて
おもひのまいにするわさそよき
というのがございます。
一、常に何も思わない、何事に執着しないのが、仏の道を稽古することです。
一、何も思はぬ態度で、何もかもするがよい。
生きながら、死人となつてなり切つて、
思いのままに行ふことがよろしい。
という意味です。
なにも思わないのが仏の稽古であるという言葉が、親しみやすく、それでいて奥深いものです。
心ということについて、無難禅師は、
「仏といい、神といい、天道といい、菩薩といい、如来という、これらいろいろな有がたい名は、人の心をいろいろに変えて呼ぶばかりのものだ」と仰せになっています。
そして「心にはもともと一物も無い。
心の動きは、第一、慈悲であり、和(やわ)らかであり、直(すなお)である。」
と説かれています。
慈悲の心で、柔らかに素直になるのが仏の心なのです。
日々仏の稽古に励みたいものです。
横田南嶺