青空の向こうは
滝を登った鯉が龍になるということが、鯉のぼりのもとになるとも言われています。
また登竜門とも言い、困難ではあっても、そこを突破すれば立身出世ができる関門のことを言います。
禅語に、「直に万重の関を透って青霄裏にも住まらず」という言葉があります。
鯉が龍門の滝のような急流を幾重をも超えて、龍となって天に上って、その天にもとどまらないという意味です。
青霄は、あおぞらのことであります。
この言葉は、『臨済録』の中に出てきます。
臨済禅師が、三峰山の平和尚を訪ねた時の問答です。
平和尚が、「どこから来られたか。」と聞くので、臨済禅師は「黄檗から来ました。」と答えて、問答が始まります。
そのやりとりの中で、臨済禅師は、
「直に万重の関を透って、青霄裏にも住まらず」と述べているのです。
朝比奈老師訳註の『臨済録』を参照すると、
「あらゆる仏祖の関門を透り、しかもその晴れわたった大空のような心境にも、とどまりませんぞ」と訳されています。
青空にとどまらないというのならば、その先はいったいどこに行くのでしょうか。
それはまた、もとのところに帰ってくるのであります。
私たちが、今暮らしている世界は、「色」の世界であり、そこは差別の世界でもあります。そこに森羅万象があり、山川草木があり、目に見える世界であり、「有」の世界です。
ここには、絶えず比較があり、差別があり、争いがあって、苦しみは尽きることはありません。
そこで坐禅して無になる修行をします。
この身体と心を形成している五つの集まり、色受想行識という五蘊を皆空であると観じるのであります。
坐禅して身心脱落してしまうのであります。
色即是空であります。
そうしますと、「空」の世界であり、本来の自己が顕わになって、仏性が自覚されます。
ここが青空の世界でもあります。
目指すべき世界であります。
しかし、その青空のところにとどまらずに、もう一度現実にもどるのであります。
空即是色の世界です。
そして脱落した身心をもって、現実の日常に帰って、お茶を飲んだりご飯を炊いたり、慈悲の行を実践するのであります。
そこではすべてが空じられていますので、何の見返りも求めずに無心にはたらくのであります。
青空の向こうは、この現実の世界にもどるのであります。
そして、「衆生無辺誓願度」という願いをもって生きるのであります。
衆生は無辺ですので、その悩み苦しみも無限なのです。
救ってゆこうという願いもまた限りがないのであります。
終わりがないのであります。
この菩薩の願いこそが、禅に生きる者の生命なのであります。
佐々木閑先生の『仏教の誕生』を読んでいると、お釈迦様の教えの根本が説かれています。
引用します。
「まず仏教というのは、その教えを全世界の人々に説き広め、世界中の人々が釈迦の教えにしたがって欲望を捨てた生活を送るということを目的とする宗教ではありません。
仏教という宗教は、現世のより良いものを求めるという当たり前の人間の価値観、世俗の価値観の中で生きることのできない人、その生き方からどうしても外れてしまう、つまり、進歩や夢を目標として生きることができなくなってしまった人、もっというと、生きることに絶望を感じている人たちがそれから先の行き場所がなくなったときの受け皿として、この世に現れてきたのです。お釈迦さま自身がそのことはよく理解した上で仏教という宗教組織をお作りになりました。」
というのであります。
そうして始まった教えだったのが、長い時代の変遷を経て、大乗仏教になって、この世界の悩み苦しむ人を少しでも救ってゆこうという願いをもって生きる菩薩の道を説くようになったのでした。
洞山禅師は禅の究極のところを、「折合して還って炭裏に帰して坐す」と詠いました。
「結局のところはもとの炉辺に穏坐するだけのことだ」という意味であります。
もとのところ、もとの暮らしにもどってくるのです。
しかし白隠禅師はそれではまだ十分ではないといって、「他の癡聖人を傭って雪を担って共に井を埋む」と詠われました。
悟りさえも捨て去り大馬鹿者になりきった聖者と共に、井戸に雪をせっせと放り込んで井戸を埋めようとするというのです。
報われないとしても、ひたすら一所懸命やるのです。
鈴木大拙先生は、この白隠禅師の見識を高く評価されました。
とある禅僧が、鈴木大拙先生に、
「先生の見性とはどういうものですか」と聞きました。
「見性」とは「本性を見る」ことであり、悟りのことを言います。
大拙先生の悟りとは何ですかという問いであります。
その問いに対して大拙先生は、
「そうだな、衆生無辺誓願度がわしの見性だな」と答えたと言います。
青空にとどまらずに、この現実の世界にもどってきて、多くの人たちの為にひたすら禅の世界、無分別の世界を、広く世の人々の知ってもらおうと著作に明け暮れたのが大拙先生でありました。
そうして、今私は毎日せっせとこうして文章を書いているのであります。
青空の向こうにあるのは、この文章で在り、今読んでくださる皆さまなのです。
横田南嶺