置かれた場所で – 咲くか、逃げるか –
江田さんは、1976年、福岡県にある浄土真宗のお寺のお生まれでいらっしゃいます。
早稲田大学で東洋哲学を学ばれ、築地本願寺でお勤めになって、そのあと、ドイツにある惠光寺に数年お勤めになっています。
2017年から、仏教伝道教会にお勤めでいらっしゃいます。
SNSなどに、お寺の掲示板があがることに注目された江田さんは、この掲示板をSNSに投稿してもらって、作品として大賞を決めたら面白いかもしれないと思ったのだそうです。
とても興味深い発想であります。
いろんな批判もあったそうなのです。
企画がはじまって、しばらくして、
「おまえも死ぬぞ 釈尊」という掲示板の写真が投稿されてネット上で注目され、新聞にも取りあげられたのでした。
この掲示板が、「輝け!お寺の掲示板大賞2018」の大賞作品となったのでした。
この掲示板は、2019年に出版された『お寺の掲示板』の巻頭にあるものです。
この掲示板の解説に江田さんは、
「毎日、これが人生最後の日と思って生きてみなさい。そうすればいつかそれが正しいとわかる日がくるだろう」
というかの有名なスティーブ・ジョブズが、大学の卒業式で語った言葉を引用されて、
「当然ですが、誰にでも人生最後の日はやってきます。今回、「おまえも死ぬぞ」という言葉に多くの人がショックを受けているのを見て、現在、死がいかに遠い存在であるかを痛感しました。だれもが経験することとして、死を身近に意識することによって、また違った「生の顔」が見えるのではないでしょうか。」
と書かれています。
この『お寺の掲示板』という本の元になったのは、江田さんが「ダイヤモンド・オンライン」に連載されているものだそうです。
連載されているもので、江田さんから、
「本当のものがわからないと、本当でないものを本当にする。」
という掲示板の言葉を教わりました。
これは真宗大谷派の僧侶である安田理深師の言葉だそうです。
この言葉を解説して江田さんは、
「安田師といえば、以前、「人生が行き詰るのではない 自分の思いが行き詰るのである」をご紹介したことがあります。
安田師にとって、この掲示板にある「本当のもの」とは、仏さまの智慧のことを意味します。仏さまの智慧(仏教の教え)を通して判断するのではなく、自分自身の知恵を過度に信用して判断するから、「本当でないものを本当にしてしまう」ことになると伝えたかったようです。」
と説かれています。
江田さんは更に、
「情報化社会の中に身を置く私たちにとって最も大切なことは、「自分にはそもそも本当のものを見分けることができない」という謙虚さを持ち合わせることかもしれません。」と懸念されています。
こういう江田さんの謙虚な姿勢には深く学ばせられます。
最近は、
「置かれた場所で咲けないときは
逃げてもいいよ 咲けるところへ」
というお寺の掲示板が注目されたと語ってくれていました。
これは、有名な渡辺和子先生が、書かれた書物『置かれた場所で咲きなさい』がもとになっています。
渡辺和子先生は、岡山のノートルダム清心女子大学の三代学長に三十六歳の若さで就任されたのでした。
東京で育った渡辺先生にとって、岡山は全く未知の土地であり、初代学長も二代目の方もアメリカ人の七十代後半の方が務めていたのでした。
「初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続」大変な思いをされた渡辺先生は、自信を無くしてしまい、修道院を出ようかとまで思い詰めていました。
そんなときにある宣教師の方が、一つの短い英語の詩を渡してくれたのでそうです。
その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったというのです。
この話に私も感動しました。
私自身もまた三十代の半ばで、円覚寺僧堂師家という役職につくことになって、慣れない立場に困ってしまい、「ここから逃げ出したら」と考えたこともあったものです。
その頃は、まず今日一日は逃げるのをやめて頑張って、明日に逃げようと思ったものでした。
そしてまた次の日になれば、今日一日は頑張って明日に逃げようと思って、それが続くうちにどうにか月日が過ぎていったのでした。
そんな経験があるので、渡辺先生の思いにも共感できますし、この「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に感動するのです。
しかし、江田さんは、この「置かれた場所で咲けないときは 逃げてもいいよ 咲けるところへ」という掲示板の言葉を取りあげて、
「実際、置かれた環境が自分に合うか合わないかはご縁の問題なので、己の能力や努力だけでは残念ながらコントロールできません。人間の適応力にも当然限界があり、職場や学校などの環境が自分に合わず、悩みに悩んで自死を選ぶ人たちが後を絶ちません。そのような事態を避ける意味でも、置かれている環境の中で強いストレスを感じている人は周囲に相談することも重要ですが、本当にどうしようもないときには、思い切ってその環境から逃げることも大切です。」
と説いて下さっています。
この頃は新聞を読んでいても、お若い方の自死が増えているという記事に心が痛みます。
そんな今の状況だからこそ、このような言葉が心に響くのだと思いました。
逃げるというと、あまりいい印象がしませんが、ほんの少し場所を変えるだけだと思えば如何でしょうか。
少しくらい場所を変えた処で、仏教の世界でいえば、皆御仏の掌の中なのです。
柳宗悦さんの言葉を思います。
「ドコトテ 御手ノ真中ナル」
柳さんは、
「「御手」というのは、仏の御手でも、神の御手でも、菩薩の御手でもよい。私が何処に在るも、何処を向くも、居るその個所が、御手の真中といふのである」と書いています。
ドコトテ御手ノ真中ナル
何処に行っても仏様の掌の中だという、そんな気持ちを持っていたいものです。
横田南嶺