迷いの世界をはるかに超えて、物にとらわれないとは
「炯」は、「とおい。はるか。中間がうつろで、とおくにぽつんと見えるさま。はるかに離れた」という意味があります。
「炯然」で「はるかにとおいさま。ぽつんととおくに孤立するさま」を言います。
「独脱」は独り抜きん出ていることです。
「炯然独脱」とは、この迷いの世界から独りはるかに抜きん出ていることであります。
そして外の物に引っかからないのです。
ここのところの『臨済録』の文章を紹介します。
実に勢いのよい文章で、臨済禅師の面目躍如たるところです。
漢文でご紹介したいのですが、漢文ですと読み上げても意味が通じませんので、今回は岩波文庫の旧版の『臨済録』、朝比奈宗源老師の訳註から、現代語訳を引用させてもらいます。
「もし真正の修行者ならば、仏をも求めず、菩薩をも阿羅漢をも認めず、この世の有難そうなものなど一切問題としない。そんなのからはるかに超越して、たとい天地がひっくり返ってもびくともせず、十方世界の仏たちがそろって出て来られてもいささかも喜ばず、三途地獄が現われても微塵も怖れない。なぜかと言えば、わしから見ると、すべての存在は空相であって、因縁によって現われて有となり因縁によってまた無となる。三界は唯心の所造であり、万法は唯識の所現であるからだ。だから古人もこんな夢幻空花にひとしいものを把えようとあがきまわるなと言っている。」
というのであります。
仏道を歩むものは、仏を目指して修行するのでありますが、その仏をも求めないというのです。
まして況んや、仏を拝んでひれ伏しているようなことではないのです。
大乗仏教では、菩薩が理想の姿だと説かれていますが、その菩薩を求めようともしません。
上座部の仏教では、阿羅漢になることが究極だと説かれていますが、その阿羅漢も求めないのであります。
まして況んや、この世で殊勝とされるようなことなど一切問題にしないのです。
社会で成功したいとか、富を得たとか、名声を得たとか、そんなことには全く目もくれないのです。
そのように説いておいて、「炯然独脱して物と拘わらず」というのです。
仏だの菩薩だの阿羅漢だの、世の富や名声など、そんなものから遙かに超越して外の物にはとらわれないのです。
天地がひっくり返ってもびくともしないのです。
十方の諸仏が目の前に現れたならば、有り難くて伏し拝むところでしょうが、いささかも喜びはしないのです。
地獄が現れても恐れることもないというのです。
どうしてかといえば、そんなものは、すべて空であって、仮にそのように見えているだけのものだと気がついているからです。
因縁によって現れ、因縁によって消滅するだけのことなのです。
すべてはお互いの心が映し出した幻影だというのです。
夢幻の如きもの、ありもしない空中の花をつかまえようとしても無意味なのです。
そのように説いておいて臨済禅師の説法はさらに一層強くなってゆきます。
「ただ、お前たち、目の前で現に説法をきいている「人」だけが、火に入っても焼けず水に入っても溺れず、三途地獄に入っても花園に遊ぶよう、餓鬼道や畜生道に入っても苦しみを受けない。
なぜかと言えば、嫌い避けねばならないものは何も無いからだ。古人も、「汝がもし仏をば愛し凡夫をば憎んだならば、永遠に迷いの海に浮きつ沈みつするであろう。煩悩は心によって生じる。無心であれば煩悩も邪魔にならない。心に分別や執着が無ければ、自然に仏道に契うのに手間暇はかからない」と言った。お前たちが、外に向ってあくせくとなにものかを学びとろうとしたならば、三祇劫の長い間努力しても迷いの世界を超えることはできない。そんなことは打ちすてて道場に入り、どっかりと思い切り坐ることが一番だ。」
と説かれています。
ただ今こうしてこの話を聞いてるもの、これだけが生き生きとしてはたらいているのです。
山田無文老師は、禅文化研究所の『臨済録』のなかで、
「ただ実在するのは、人々の意識自体である。そこでわしの話を聴いておる意識自体は確かにあるはずである。「我れ思うが故に我れ在り」だ。夢ではない、幻ではない。空花ではない。確かにある。それが森羅万象、一切の現象をあらしめていくのである。縦には三世を貫き、横には十方をぶち抜いて、世界を現出していくものは、この聴法底の意識自体である。その意識自体の本質は、形もなければ、色もなければ、姿もない。したがって、火の中にくべて焼けるというようなものではない。水に入って溺れることもない。絶対超越だ。火をあらしめ、水をあらしめていく根本になる意識である。」
と説かれています。
火に入っても焼けず、水に入っても溺れないというところを無文老師は、
「どんな大火事の映画を映したからといって、映画の幕は焼けやせん。どんな激しい戦争の映画を映しても、あの白い幕はちっとも焦げはせん。どんな大海の水を映したからといって、幕は濡れやせん。お互いの主体性そのものは、絶対超越であって、何ものをもこれを動かすことはできんのである。そういう力強い自己を発見せんといかん。インフレになろうがデフレになろうが、食う物がなかろうが、ビリッとも動かんのだ。」
と説明されています。
映画の幕の譬えは分かりやすいので、私もよく使わせてもらっています。
「たとえ八寒地獄、八熱地獄の真只中に落ちても、悠々と公園を散歩しておるようなものだ。いくら激しい戦争の映画を映しても、幕は涼しいようなものだ。どんな世界が現われて来ても、静かにこれを眺めていく心の余裕がなければならん。三塗地獄に入るも園観に遊ぶが如しだ。」
と無文老師は提唱されています。
地獄に入ること園観に遊ぶが如しというのは、もとは『法華経』にある言葉ですが、『法華経』では、いい意味では使われていません。
『法華経』には、「この経典を誹謗する者にとってはつねに、地獄が行楽の場となり、餓鬼・畜生・阿修羅という悪道が住処となり、ラクダやロバやイノシシや犬といっしょに過ごすことになるのです。この経典を誹謗したために受ける罪は、こういうことです。」
と説かれています。(春秋社『現代日本語訳 法華経』正木 晃著から引用しました)
その言葉を用いながらも、臨済禅師はまったく逆の意味で、たとえ地獄で釜ゆでになろうとも、「いい湯だな」とって楽しんでこようというのであります。
これほどまでに、力強くお互いの主体性を高らかに説いたのが臨済禅師であります。
横田南嶺