お月さまが上れば
「一片の月、海に生ずれば、幾家の人か楼に上る」という禅語があります。
もとは禅月大師の詩の中にある一句です。
禅月大師は、貫休という名の禅僧です。
『禅学大辞典』によれば、西暦八三二年の生まれで九一二年にお亡くなりになっています。
石霜慶諸禅師のお弟子であります。詩、書、画にすぐれていたと書かれています。
漢詩を集めたのが『禅月集』であります。
朝比奈宗源老師は、この『禅月集』を愛読されていたそうで、朝比奈老師の蔵書印のある『禅月集』を私が今受け継いでいます。
「暮烟微雨収まり、蝉は急わし楚郷の秋、一片の月海に生ずれば、幾家の人か楼に上る」という詩の一節です。
明月が一つ海から天空に昇ると、どれほどの人たちが、たかどのに上って月をみるだろうかという意味です。
入矢義高先生の『禅語辞典』には、「「たかが一片の月のために」という含みを帯びる」と解説されています。
楼という字は、「たかどの。二階以上の高い建物。高くて大きな建造物。」という意味です。
徳のある人が一人世にでると、万人がこれを仰ぎ見るという意味にも使われます。
この言葉を読んで思い出したのが、今から二十数年前に、私が円覚寺の僧堂師家に就任して、初めて皆の前で提唱という、禅の語録の講義をするときに、前管長の足立大進老師は、講本を包むふくさに、この句を墨書して下さったことでした。
有り難くも、私如き者に、「一片の月海に生ずれば、幾家の人か楼に上る」ように、そんな提唱をするよう願いを込めて下さったのかと感謝します。
しかしながら、力不足の私の講義を聴いてくださる方は、年を追う毎に減ってしまって、とうとう昨年のコロナ禍になってしまったのでした。
思うに、お釈迦様のようなお方が世に出られたことは、まさしく「一片の月海に生じた」ようなもので、当時のインドの人たちが、国王から一般の方々までお釈迦様を仰ぎ見、心のよりどころとされたのでしょう。
今語録を講義をしている盤珪禅師のようなお方でも、当時大名からも招かれてお説法をなされていますが、どこに呼ばれても満席の方々であったようで、盤珪禅師がお説法をなさると、そのあとその国の風紀がよくなったと言われます。
盤珪禅師は、禅師のもとで出家した弟子が四百余名、法号を受けて弟子の礼を取るもの五万余人、諸国に創興された寺院が四十七、お亡くなりになった後に勧請して開山とする寺が百五十に及ぶといわれていますので、まさしく「一片の月海に生ずれば幾家の人か楼に上る」生き方をなさったのであります。
この言葉の逆もあると思います。
悪い行いをすれば、その悪評が広まることもございましょう。
身を慎み、絶えず仏道を求めてゆくことが大切であります。
釈迦に提婆の喩えと申しますが、お釈迦様といえども、すべての人がみなその教えを仰いだというわけでは決してありません。
お釈迦様が、『法句経』の中に
二二七、アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
二二八、ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
と説かれている通りであります。
提婆達多というのは、お釈迦様のいとこでありますが、お釈迦様を退けて教団のリーダーになろうとしたと言われます。
提婆達多は、マガダ国の王子阿闍世と親交を結び、暗殺者を送りお釈迦様を殺そうとしたとか、山の上から大きな石をころがして、お釈迦様を殺そうとしたとか、暴れ狂う象を放って殺そうとしたとか、仏典には、数々の悪行が書かれています。
お釈迦様にとっても気苦労が多かったろうと思います。
ただこの提婆達多には一途な一面もあって、
仏教の出家者は森林など人里離れた場所で生活すること、
托鉢のみで生活し、食事の接待をうけないこと
ボロの衣のみを身につけて信者から衣服をもらわないこと、
樹の下だけに坐って、屋内に入らないこと
魚や肉を食べないこと
などという五つの要求をされたと説かれています。
当時の出家者でも、人里で生活して、信者から食事の接待を受けたり、衣服をもらったりすることもあったようなのです。
肉食については、古い仏典には禁止されてはなかったのでした。
托鉢などでいただくものは有り難くいただいていたのでした。
そんな厳しい修行生活を要求するほどでありましたので、提婆達多を支持する者もいたようなのです。
とかく提婆達多というと、悪い面ばかりが強調されますが、人間の評価はある一面だけでは難しいものです。
後に大乗経典の『法華経』では、提婆達多のことについてお釈迦様が、
「私の善き友であり、かれのおかげで私は六波羅蜜そのほかのすばらしいものを獲得したのである」と説かれている程なのであります。
褒められるばかりのこともなければ、そしられるばかりのこともないのが世の中です。
善人に見えて、悪い一面もあり、悪人に見えて、善い一面を持つのがお互い人間なのであります。
入矢義高先生が『禅語辞典』に、「「たかが一片の月のために」という含みを帯びる」と解説されているように、あまりに一方的な見方をするのは気を付けた方がよいと思います。
「一片の月海に生ずれば、幾家の人か楼に上る」という禅語を学びながらもいろんなことを考えていました。
横田南嶺