黙 – 説き了れり
住職しておられた黄梅院の本堂には、「黙」と大書した木の衝立がありました。
お檀家の方は、これを「黙れ」と読んで、法事の席に着いたら、ものを言わずに黙っていろという足立老師のお言葉だと受け止めていました。
たしかに、法事の席では、お経をあげる前にあまりしゃべるのはよくありません。
黙ってお経が始まるのを待って、黙ってお経を聞いて、黙って焼香をするのであります。
しかし、足立老師が書かれたこの「黙」の一字は、決してそのような「黙れ」という意味だけではないのです。
足立老師は、「黙」と書いた横に、小さな文字で「説了也」と書き添えておられました。
「黙」ですべて説き了っているということです。
修行時代に、足立老師のお側におつかえてして、ある時とある高名な音楽家の方が足立老師を訪ねてこられたことがありました。
お名前も国籍も忘れてしまいましたが、わざわざ大書院で相見されていましたので、かなり高名な方だったと思います。
足立老師は、色紙に「黙」と書いて、その横に「説了也」と書き添えて、その音楽家に差し上げていました。
そして、通訳の方を介して、「禅では、黙っていて、すべて説き終えているのです」と伝えていました。
私は、お側にいて、こんなことを言っても外国の方に伝わるのかなと不審に思っていましたが、その音楽家の方はさすがで、通訳の言葉を聞き終わると、興奮した様子で、「そうです、音楽も演奏するまえに、すべて終わっているのです」と仰ったのでした。
あとは足立老師とその方をただニコニコ笑って手を握り合っていたのでした。
知人から青山俊董老師の新書『光ある人生へ』を送っていただきました。
本を開いてみると、青山老師がゲーテの言葉を引用されいている箇所に目がとまりました。
すべての理論は灰色で、
緑なのは生の黄金の樹だけなのだ。(ゲーテ『ファウスト』)
この言葉を引用して、青山老師は、
「私は花が好きで、よく花の写真や栽培法などの本も手にする。しかし本ではさっぱりおもしろくなく、すぐ飽きてしまう。花づくりにうつつを抜かしている友を訪ね、庭いっぱいに咲き乱れ、あるいは芽吹き、あるいは散らんとしている花々の中に立つと、時を忘れる。いとおしみつく、一輪二輪、一枝二枝をいただいて、ふさわしい花器を見つけ、花と語らいながら、花の声を聞きながら生ける。写真や文字では花の声は聞こえない。生の花からは声が聞こえる。花との語らいが又ひとしおにたのしいまさに理論は灰色で、いきいきと生命ある「生」の姿は黄金だ」と説かれています。
さらに青山老師は、唯識学の泰斗であられた太田久紀先生の言葉を紹介されています。
「理論や言葉には一つの限界がある。言葉で表わすということ自体に、ものを固定化するという宿命があるし、理論には枠組みをはみ出したものはこぼしてしまうという限界がある」というのであります。
春秋社から出版された羽矢達夫先生の新著『ゴータマ・ブッダ その先へ 思想の全容解明』という本については紹介したことがありました。
私たちの迷いの原因は、「行」というサンカーラにあるという説であります。
羽矢先生は、「行」を「自他分離的自己を形成する力」と説かれています。
そして、このサンカーラは言葉にも深く関わるというのであります。
『ゴータマ・ブッダ その先へ 思想の全容解明』から引用させていただきます。
「サンカーラには「ことば」が含まれています。ことばにはその意味的な世界においてあるものとそれ以外のものとの融合的で緊密なつながりを断ち切り、それぞれがまったく分け隔てられ、ばらばらに孤立して、しかもそれだけで変わることなく永遠に存在しているかのように思わせる性質があります。」
というのであります。
それは、更に
「「わたし」ということばは、それが発せられた時点で、すでに「わたし以外のもの」との緊密なつながりを断ち切っており、たがいの融合的なつながりは考慮されていません。「わたし以外のもの」の存在はなくても、「わたし」だけで存在が成立するかのように思わせます。」というのです。
言葉は便利であり、言葉によって私たちは意志の疎通ができて、文化が発達したと思いますが、言葉にすることによって、大切なものを見失ってしまっている一面があるというのです。
ブッダは、
「ことばで表わされるもの〔の本質」をわきまえて、こころやわらぎ、安らぎの境地を楽しむ。真理に立脚し真義を究めた人は、ことばに関わりながらも、ことばに執らわれないのである。(『イティヴッタカ』)
と説かれています。
言葉の便利なことを知りつつも、その言葉の限界、言葉にならないものの大切さを見失ってはならないと思います。
「黙」の一字には、そんな意味も込められています。
思い出したのは、随分以前に、禅について聞きたいといって、ある方が私を訪ねてきたことがありました。
お目にかかってもその方は何も言いませんので、こちらもただ黙っていました。
小一時間ほど黙ったままでした。
私としては、しゃべるよりも黙っている方が得意なので、坐禅している気持ちで、ただ丹田に気を静めて坐っていたのでした。
やがて、その人が、感動した様子で「すばらしい教えを有り難うございました」と御礼を言って帰っていたことがありました。
言葉にすれば遠ざかり、むしろ一言を発せずに説き了るということがあるものです。
横田南嶺