初発心の尊さ
「初発心の時、便ち正覚を成ず」という言葉があります。
『華厳経』にある言葉です。
「正覚」は正しい悟りであります。仏教の修行の上で目指すものであります。
その目指すべき正覚が、初めて求める心を発した時にすでにできあがっているという意味であります。
最初の志が肝心なのであります。
『華厳経』には、「入法界品」という章があって、そこには、善財童子が、文殊菩薩に促されて悟りを求める旅に出発して、五十三人もの善知識、仏道の仲間や師を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟りを得る様が描かれています。
この五十三人の知識を訪ねたということが、東海道五十三次の由来となっているとも言われています。
仏道を求めて、いろんな方々に学ぼうという心こそが、仏の心であるとも言えましょう。
仏の心があるからこそ、仏の道を求めるのだということもできます。
後に禅では、即心是仏といって、心こそが仏だということが説かれるその原点が、この「初発心の時、便ち正覚を成ず」という言葉にあるのではないかと私は思っています。
「仏とは何ですか」と問われて、その仏とは何か求めようとする、その心こそが仏であると説いたと察します。
またこの「初発心の時、便ち正覚を成ず」は、初心の大切さを説く言葉としても用いられます。
「初心忘るべからず」という世阿弥の言葉はよく知られています。
「よし、やろう」と志を立てた時には、すでに七分のことは成っているという方もいます。
あとの三分は努力してゆくということでしょう。
禅の修行にしても、この初心は大切であります。
初発心であります。
修行道場には毎年新しい修行僧が来ます。
ほとんどの方は、生まれて初めて草鞋を履いて、網代笠を被って、僧堂の玄関で入門を乞うのであります。
その時の心境たるや、やるぞという決意とだいじょうぶかなという不安が入り交じっているものの、純粋な心意気であります。
修行して、年数が経ってゆくにつれて、立派になっていくように思われがちですが、私はこの頃、修行しようと思った時が、一番純粋無垢であって、そのあとは段々と堕落してしまうようにも感じます。
修行中も初心を持ち続け、和尚さんになってからも初心を失わずにいることは至難であります。
だんだん初心を失ってしまうのです。
和尚さんになり、はては「老師」などと呼ばれるようになってしまうと、初発心はどこかに行ってしまったのではないかと思うこともあります。
大いに我が身を反省するところです。
ことに仏道の修行は、これで終わりということはありません。
四弘誓願に鞭打って修行し続けるのであります。
衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学 仏道無上誓願成
の四つの誓願であります。
衆生無辺誓願度とは、生きとし生けるものの悩み苦しみは限りないけれども誓ってこれを救おうという願いです。
煩悩無尽誓願断とは、わがままな煩悩は限りないけれども誓ってこれを断ってゆこうという願いです。
法門無量誓願学とは、教えは尽きることが無いけれども誓って学んでゆこうという願いです。
そして仏道無上誓願成とは、仏道はこの上ないものだけれども誓ってこれを成し遂げようという願いです。
限りない人の悩み苦しみを救ってゆこうというのですから、終わるはずがないのであります。
終わりがないので、常に初心になって、挑み続けるしかないのであります。
道元禅師は、『正法眼蔵』の「発無上心」の中で、
「一発菩提心を百千万発するなり」
と仰せになっています。
初発心を一度起こせばそれでいいというものではないのです。何度でも何度でもくり返しくり返しておこしてゆくのです。
青山俊董老師の本の中で、武井哲応老師の話を読んだことがあります。
相田みつをさんが師事された武井哲応老師のお話であります。
武井老師が、高校時代の同級会に出られた、その席上でのことです。
同級生の一人が文化勲章をもらったそうなのです。
それが「高校時代にはあまり成績がよくなかった人」だったとか。
同級生が口をそろえて言いました。
「お前なんか高校時代はいつもかすんでおって、お前が文化勲章を貰うんじゃ、われわれのクラスには、ノーベル賞を貰う奴が何人もいなければならない」と。
その友は答えました。
「人生というものは一段式ロケットじゃだめだ。
どんな威力のあるロケットでも一ぺんきりじゃだめだ。一ぺん噴射して、そこでまた噴射し、もう一ぺん噴射して方向転換する。
それでもダメならまた噴射するというように、無限に軌道修正をしながら進んでゆかなければならない」と。
この言葉を紹介して、青山老師は、「まさに発心百千万発である」と解説されていたのでした。
思うにノーベル賞を受賞されたような方は、何度も何度も初心を奮い起こされたのだと思います。
坂村真民先生には「初めの日に」という詩がございます。
その一
なにも知らなかった日の
あの素直さにかえりたい
一ぱいのお茶にも
手を合わせていただいた日の
あの初めの日にかえりたい
その二
慣れることは恐ろしいことだ
ああ
この禅寺の
一木一草に
こころときめいた日の
あの初めの日にかえりたい
という詩です。
初心の尊いことは分かっていても、いつの間にか見失ってしまいます。
なれることは大事ですが、なれることほど恐ろしいこともございません。
「初発心の時、便ち正覚を成ず」という言葉を口にするたびに自らを反省するのであります。
横田南嶺