森に学ぶ
これでは2017年から始まっているものです。
第一回の時には、私もお招きいただいて、藤田一照さんや、スティーブン・マーフィ重松先生と鼎談させていただいことがあります。
毎年、それぞれテーマを決めて二日間にわたって行われる大がかりな催しであります。
昨年もそうだったのですが、今年もオンラインになったので、いくつかのプログラムを拝聴させてもらうことができました。
興味を持ったのが、「縄文と森~生命感覚の再起動~」という対談企画でした。
森のリトリート創業者、プロ・コーチの山田博さんと、人類学者の竹倉史人さんとの対談です。
とりわけ、山田さんの森の話に心が惹かれました。
たとえば、私たちは、なんでも言葉にして理解しようとしますが、そのことが問題だというのです。
「木」という言葉にすると、もう「木」ではないのです。
「木」という記号で認識して終わってしまいます。
もし「木」という言葉を使ってはいけないとしたら、「なんだこの生命体は?」ということになります。
根っこと言ってはいけないとすると、クネクネとしたものが大地にくい込んで、そこから巨大なものがたちあがって、伸びているのです。
「木」というラベルを貼らないととんでもない異様な生命体があるのです。
そんなことを竹倉さんが語って、山田さんが大いに共感されていました。
そこでこの山田さんのことをもう少し勉強したいと思い、ご著書を購入したのでした。
『森のように生きる 森に身をゆだね、感じる力を取り戻す』という本であります。
はじめの方に、こんな山田さんの言葉がありました。
「森は、私にとってもの言わぬ偉大な先生なのです。森は多様性のるつぼです。実にたくさんの命が折り重なっています。
一枚の落ち葉をめくると、その下の手の平ほどの土の中に何億という目には見えない微生物の世界が広がっています。森全体には一体どれだけの命があるのかと思うと、銀河の星の数と思えるほどの多様性なのです。
同時に、森では頂点にいる何者かがコントロールしているわけではなく、それぞれの命がそれぞれのペースで動き、それなのに全体がうまく連携し合って、森という命が続いているように見えるのです。」
実に仏教で説く華厳の世界観であります。
山田さんは、もともと企業に入りビジネスの世界ではたらいていたそうです。
そこから、森の世界に心惹かれていったのでした。
「計画しコントロールすることで結果を出す」という今までのやり方に限界を感じていたというのであります。
そこで山田さんは「森の魅力にどんどん惹き込まれていきました。森に身をゆだねていると、ふとした瞬間に自分の心に触れる何かに出会います」というのであります。
こちらも引き込まれるように読み進めたのでした。
本の中には、慶應義塾大学の前野隆司先生との対談も掲載されています。
前野先生には何度かお目にかかり、この夏には慶應の前野先生の授業で、オンライン講義をさせてもらったのでした。
前野先生が、山田さんと森に初めて入った時のことが語られていました。
「当時、父が末期がんで、もう次の桜が見られないだろうと言われていて、そのことが僕の心の中を占めていたんです。
森で倒木を見た時に、最初は「ああ、木が死んでる」と思ったんですが、でも、その倒木にも苔があって虫がいて豊かさがある。
「倒木も、森の大切な一部であり続けるんだなあ」と思うと、「ああ、命の循環だ」とわかった。「決して、死は終わりではないんだ」ということを体で理解できた。これが最大の気づきでしたね。そのときは死のことばかり考えていた時期だったので……。」
と語っています。
そんな体験をして前野先生は、「今ここに自然の一部として在ること以上に何を望む必要があろうか」と思われたのでした。
「木の根元に寝っ転がると、自分の頭の上に木が生えているような感じがする」というような表現も本の中にはございます。
「あ~、木になった……」って思えたというのです。
自分が地面で、その地面がたまたま目を持っていて、そこから木が生えていて「ああ、一体化した」という感覚。
前野先生は、「幸せの研究をしている身としては、これが幸せの境地だなと感じました」と語っています。
この本を読む少し前に、修行僧達と一緒に、神奈川県にある大山に登っていました。
ここ十年ほど毎年登っているのであります。
ところが、私たち修行道場にいると、なんでも早いことがいいと思い込まされているので、早く頂上を目指して行こう、早く降りようと考えてしまいます。
実際に私なども修行道場に長くいて、一番叱られる言葉としては「早くしろ」「モタモタするな」「遅れるな」ということでした。
せっかく深い山に入りながら、山田さんが本で書かれているように、もっと土の臭いを嗅いだり、時には素足で歩いてみたり、森そのものを感じるようにすれば良かったと後で思ったのでした。
今度登る時には、少しでも早くという考えはやめて、森に抱かれ森を感じ、森に学ぶように登ろうと思ったのでした。
横田南嶺