禅の呼吸とは?
十月十日には、「横の連携で視点変える」という題で書かれています。
「以前ハーバードの客員研究員をしていたとき、研究室長の教授に「日本人の研究者はひとりひとりが優秀なのにどうして横の連携を取らないのか」と聞かれたことがある。」ということから書き出されています。
その横の連携ということから、海原先生は、
「さてこの十月三十日、横の連携を重視した医学会をオンラインで開催することになった。病気を治すということではなく、人が心地よく生きるために必要なウェル・ビーイングを高めることを研究するポジティブサイコロジーという分野の学術集会である。」と紹介されています。
そのあとには、
「精神科や心療内科だけでなく眼科や救急医療などの専門家、また教育や経営、スポーツ、音楽に携わる専門家、そして禅の呼吸を鎌倉・円覚寺管長の横田南嶺老師が講演するというまさに横の連携を重視した学会で、医師や研究者だけでなく、一般の方も参加できるようにした。」
と書かれていまして、私の名前が出ていることに驚き、恐縮に思った次第であります。
「禅の呼吸を」と書かれていますと、しっかり講義しなければと思ってしまいますが、改めてこのように書かれると、「禅の呼吸」とはそもそも何であったかなと考えてしまいます。
箕輪顕量先生が、最近NHKの心の時代で、瞑想について連続講義をされていました。
その内容の本が『瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する』という題で出されています。
初期の仏教から、瞑想がどのように変化してきたかがよく分かる本です。
その中に、
「智顗の説く「身心の観察」において注目すべきことがあります。それは、中国の伝統的な「気」の思想の影響が見て取れることです。」
と書かれています。
そこで『天台小止観』の記述が引用されています。
「次に頭や首を正し、鼻と臍とを相対させ、かたよらず斜めにならず、低からず高からず、平面に正しくとどめよ。次に口から濁気を吐くのがよい。気を吐く方法は口を開いて気を放ち、荒かったり急だったりしてはならない。」
というところが書かれています。
ここで説かれている「濁った気を吐き出し、清らかな気を体の中に納めること」というのは、箕輪先生は、「先秦時代の道家の中に伝わる「吐納」と呼ばれる呼吸法と重なっています」と指摘されています。
「吐納とは「故きを吐き新しきを納める(吐故納新)」という意味で、現在も、道教の中で大切にされている呼吸法です。」というのであります。
そこから箕輪先生は、
「中国の仏教、特に天台宗や禅宗では、このように呼吸法が取り入れられていることが注目されます。
インドの初期仏教では、呼吸は意図的に吐いたり吸ったりはせずに、ただ自然に起きてくる呼吸を観察するだけでした。
しかし、中国では独自の文化の中で築かれてきた呼吸法や「気」という東洋思想が仏教の中に取り入れられたのです。」
と解説して下さっています。
自然の呼吸を見つめるというのがもともとの仏教の瞑想だったのですが、それが中国において、道家の「氣」の思想が加わって、独自の呼吸法が行われていったということなのです。
日本の臨済禅においては、今日白隠禅師の教えがもとになっていますが、白隠禅師が強調された内観の法なども、中国の道家の思想が大きく影響しています。
白隠禅師は、専ら気海丹田に氣を満たすことを力説されたのでした。
白隠禅師の呼吸法を学んで、独自に静坐法を説かれたのが、岡田虎二郎先生であります。
岡田式静坐法は、大正時代に大変流行しました。
『岡田式静坐法』には、
一、正しき呼吸は、息を吐く時下腹部(臍下)に氣を張り自然に力の籠るやうなる。
二、其結果として息を吐く時下腹膨れ、堅くなり力が満ちて張り切るやうになる。
三、臍下に氣の満つる時胸は虚となる。
四、吐く息は緩くして且つ長し。
五、息を吸う時は空氣胸に満ち來りて胸は自然に膨張す、胸の膨るる時臍下の張りは自然に輕微の收弛を見る。
六、胸の膨るる時も腹は虚となるにあらず、呼氣吸氣にかかわらず重心臍下に安定して其處に氣力の不断の充実なかるべからず。
七、正しき呼吸の吸ふ息は短し。
八、健全なる呼吸は他人が見て分らぬ位に平静なるべし。
と説かれています。(一部文章を分かりやすく変えています)
これは最近の『スタンフォード式疲れない体』に説かれているIAP呼吸法というのによく似ています。
『スタンフォード式疲れない体』から引用しますと、
「IAP呼吸法とは、息を吸うときも吐くときも、お腹の中の圧力を高めてお腹周りを固くする呼吸法で、お腹周りを固くしたまま息を吐ききるのが特徴です。」
というものです。
「腹式呼吸の場合、「息を吐くと同時にお腹をへこませる(IAPを弱める)」のですが、腹圧呼吸では反対にお腹をへこませずに、息を吐くときも圧をお腹の外にかけるように意識してお腹周りを「固く」します。
腹腔の圧力が高まることで体の軸、すなわち体幹と脊柱という「体の中心」が支えられて安定し、無理のない姿勢を保つことができるのです。
そうして体の中心を正しい状態でキープすることで、中枢神経の指令の通りがよくなって体の各部と脳神経がうまく連携し、余分な負荷が減るという理論」
だというものなのです。
そんなところから、今日の臨済の坐禅においては、指導されているところを紹介しますと、
「尾骶骨の上、ヘソの裏のあたりに力を入れて、腰をぐっと突っ立て、下腹を前に押し出した状態で、肛門をぎゅっと引きしめ、口を閉じて鼻から、腹筋を使い腹圧を利用して、「静かに、細く、長く」腹式呼吸をする。これを「丹田息」という。吸う時は、みぞおちに力をいれぬようにして静かに深くヘソの下まで吸う。吐く時は、下腹の腹圧でヘソの下から呼気が出るようにする。このように出入ともに丹田に「気」を存して、そこを充実させるように努めることが大切である。初めは意識的に工夫するが、やがて修熟すれば自然に無意識の中にもそれができるようになってくる。」
と説かれるのであります。
こちらは、秋月龍珉師の『公案 実践的禅入門』(ちくま学芸文庫)から引用させていただきました。
そんなところが「禅の呼吸」というものでありましょうか。
秋月師は、大森曹玄老師にも師事されていて、
「大森曹玄老師はもと直心影流の剣客である。よく「昔は両国橋を一息で渡れなかったら武芸者の端くれとは言えなかった」と言われる。」
と書かれています。
そして、大森老師から直伝されたという深呼吸のやり方を紹介されています。
「筆者はこれを習ってどれほど入定の助けとなったか分からない」というのであります。
どんなやり方かというと、
「まず、口を大きく開いて大気と下腹とを直結するつもりで、つまり咽喉や胸部を使わずに下腹を収縮した力で、胸底をカラッポにするつもりで綿々と長く吐いて吐いて吐きつくす。およそ三十秒ほども吐く。こうして炭酸ガスを吐くだけでなく、腹中の邪気や濁気や精神的な煩悩妄想に至るまですっかり吐き出す。実際にやってみると分かるが、このたった一息で今までの環境ととたんにすっと絶縁したような心境になるから実に妙である。
吐き尽くしたら下腹の緊張をゆるめて口を閉じる。そうすると外界の大気の圧力で鼻から自然に空気が入ってくる。その入るに随って胸から下腹へと充ちるまで十分に吸い込む。吸い込んだら、ちょっと息をとめ、腰を張り出すようにして、吸った息を下腹にすくい上げるような気持で軽く押し込む。このときけっして気張ったり力んだりしてはならない。ただ肛門をしめるのが秘訣である。そして苦しくなる直前に前のように徐々に吐き出す。こういう深呼吸を四、五回ないし十回も繰り返すと、冬でもポカポカ暖かくなってくる。そして頭がスカッとして、今まで何をしていても、これから坐禅に入るという身心のスイッチの切りかえが、これで見事にできる。」
というものです。
先に記した中国の道家の吐納の方法からきていると思われます。
しかし、注意しなければいけないのは、あまりこういう意識的な深呼吸にばかりとらわれているとよくないということです。
最近学んだ、本間生夫先生の『すべての不調は呼吸が原因 (幻冬舎新書) 』には、
「意識的に深呼吸を行ない続けていると、「二酸化炭素の調節システム」が乱れて働かなくなってしまう」と書かれています。
無意識に行われる呼吸においてこそ、二酸化炭素の調整が精妙に行われるというのであります。
やはり、乱れた呼吸や浅い呼吸を調えるには、このような呼吸法も大切でありますが、究極は何の意識もせずに、自然に営まれる呼吸こそが大切なのであります。
さて、海原先生の学会では、禅の呼吸をどのように説いたものやら今から考えています。
横田南嶺