忍を懐いて
今月の特集が、「小さなことにクヨクヨしない!おおらかに生きる」というものです。
この特集に対して、毎月「専門家からのアドバイス」という章があって、今回は禅僧であり、精神科医でもある川野泰周さんが書いてくださっています。
川野さんには、たいへんお世話になっています。
マインドフルネスについて、たくさんのことを教わってきました。
川野さんは、「自分を大切に扱ってあげる」という題で、「たまには、テレビを消し、スマホを置いて、丁寧に食事をとってみませんか」と書かれています。
川野さんは、「心に余裕がなくなってきたとき、まずやっていただきたいのは自分のためにあえて時間をつくること、すなわち「セルフケア」です」と書いてくださっています。
毎日テレビを見たり、スマホを見たり、SNSをやっているというのは、自分の時間を作っているようにみえて、本当の「セルフケア」ではないかもしれませんと言うのです。
どういうことかというと、「大切なのは、その行為をやったあと、心が満たされているかどうか」ということなのだそうです。
それにはどうしたらいいのかというと、川野さんは、「毎日何気なくやっている行為を、少し長めに、丁寧にやっていただければいいのです」と書かれています。
それは「たとえば食事。テレビを消し、スマホを置いて、おしゃべりもやめる。目の前の料理に全集中して、一口、一口味わいながら、丁寧に食べると、自然に心が満たされてきます。
丁寧に大切に食べ物をいただくと、料理をつくってくれた人や提供された命への感謝の思いが自然にわきあがってきます。それが心に充足感をもたらしてくれるのです。
丁寧に食事をしている時間がない、という方は最初の三分、あるいは三口だけでもかまいません。
食事が難しければ、洗顔でもいいでしょう。あわただしくバシャバシャと洗うのではなく、石鹸を丁寧に泡だててみましょう。
きめ細かな泡の様子や手に当たる泡の感触を味わってください。そして自分の肌にのせ、丁寧に優しく洗う」
ということなのです。
これなら、少し意識をすれば誰でもできることでありましょう。
身近なところで、「マインドフルネス」を実践できることになります。
毎月連載されている金澤翔子さんの「魂の筆跡」、今回は、
「仏は常にいませども 現ならぬぞあわれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢にみえたまう」という言葉を揮毫されています。
その数ページあとに、私が連載している「心に禅語をしのばせて」があります。
今月は、「忍を懐いて慈を行ず」という言葉を書きました。
これはあまり見られない言葉だと思います。
『羅云(らうん)忍辱経』という経典にある言葉です。
私もこの経典を知ったのは、今北洪川老師の書がご縁でありました。
洪川老師のお弟子である、釈宗演老師が、スリランカに修行に行くに際して、書いてあげられた言葉の中に出てくるのであります。
羅云というのはお釈迦様の実の子であるラゴラ尊者のことであります。出家してお釈迦様のお弟子になっていたのでした。
あるときにラゴラ尊者が、同じお釈迦様のお弟子である舎利弗尊者と共に町を托鉢していました。
そのときに暴漢に襲われてラゴラ尊者は怪我をしてしまいました。
先輩に当たる舎利弗尊者はラゴラ尊者に、「仏弟子たるものは如何なることも堪え忍び、決して怒りを懐(いだ)いてはならない」と説き聞かせました。
ラゴラ尊者もまた普段からお釈迦様の教えを学んでいるので、
「はい、このような痛みは一瞬のものです。
むしろ危害を加えた彼の方が、その罪の為に長く苦しむことになるでしょう。
気の毒なのは彼の方です」と答えました。
お釈迦様の元に帰った二人は、その出来事を報告しました。
お釈迦様は怪我をさせられても決して怒らず堪え忍んだラゴラ尊者を褒めて更に「忍」のすばらしさを説いて聞かせたのでした。
「忍は安宅(あんたく)為り(堪え忍ぶことこそ安らかな家であること)」
「忍は大舟(だいしゆう)為り、以て難(かた)きを渡るべし(忍は大きな船のように、困難な世の中を渡ってゆけるものであること)」
などであります。
そして「忍を懐(いだ)いて慈を行ずれば、世々怨(うら)み無し。中心恬然として終に悪毒無し」と説かれたのでした。
自分の身に降りかかったことは堪え忍んで、むしろ自分に辛く当たる者こそ却って気の毒な者であると、逆に慈悲の心で思いやれば、どんな時代にあっても怨みの心は起こらないし、心はいつも穏やかで、悪いことは起こらないという意味なのです。
お釈迦様は、単に堪え忍ぶばかりでなく、むしろ相手を思いやる心の広さを説かれたのでした。
どんな人にも生まれながらに仏心は具わっているのです。
これが仏教の一番大事な真理であります。
ただ残念なことに、目先のことに心が奪われてしまい、尊い仏心を見失っているだけなのです。
そのことが気の毒なのであり、むしろ、こちらから慈悲の心をもって憐れんでゆくことです。
PHP誌の、終わりには、「どうかあなたにも仏の心があると気がついて欲しいと、願う心こそが慈悲なのです」と書いておきました。
そのように慈悲の心で接することによって、穏やかで安らかに生きることができるのであります。
大らかに生きることもできるのです。
横田南嶺