この世の荒波を乗り切るには
当時の老師は、六十代でありましたが、とてもお元気で、とにかく歩くのが速かったものでした。
東京駅のような雑踏のなかでも、スッスッと人混みをすり抜けるように歩いてゆかれます。
階段があれば、必ず一段ずつ飛ばして駆け上がるようにして登っておられました。
こちらの方は、老師の法衣や袈裟などが入った大きなカバンを持って、雲水の衣に下駄履きで、追いついてゆくのに必死でありました。
追いつくようにすぐそばに着いていると、なお一層早足で歩かれたように思います。
そんなある時に、足立老師が、私にこういうことを言ってくださいました。
「どんな雑踏の中でも、こちらが丹田にしっかり気を落ち着けていれば、スッスッと進んで行けるのだ、丹田の気が抜けてしまっては、止まってしまう」と。
丹田に気を満たすと言っても、ただジッとしているのではありません。
雑踏の中を歩く時にも丹田に気を抜かないようにしていれば、自然とスッスッと歩けるのだということでありました。
これは、なるほどと思ったものでありました。
坐禅堂のような静かな環境で坐ることも大事でありますが、東京駅のような雑踏の中でも、丹田に気を抜かない工夫をすることが大切なのであります。
こういう修行を動中の工夫というのであります。
白隠禅師が、『遠羅天釜』の中で、
「とりわけ、自己の心の奥底、自性の淵源を徹底して極め、いついかなる所にあっても用いることのできる気力を得るには、動中の工夫にまさるものはない。
例えば、何百両という黄金があって、これを護衛させる場合に、部屋を閉じ扉を鎖して、黄金の傍に坐って、人に取られまい奪われまいと守ったとしても、これはとても気力ある者の優れた働きとは言えまい。
これはいわば二乗声聞の独り善がりな修行のようなものである。もし、多くの盗賊が群れる中を、その黄金を持ってどこそこまで届けよと命じられた男が、胆力を発揮して刀を差して脛をかかげ、黄金を棒の先に突っかけ、たった一人で送り届け、少しも恐れる色がないならば、このような男こそあっぱれな働きの大丈夫というべきであろう。」
と説かれています。
ここにある「部屋を閉じ扉を鎖して、黄金の傍に坐って、人に取られまい奪われまい」と守るというのは、ただジッと静かな処に坐っているという修行であります。
白隠禅師もお若い頃には、この静かな処で坐る修行をされたのでした。
日常の活動を嫌って、静かなところを好んですわっていたのでした。
そうすると
「日常のちょっとした事にも胸がふさがり心火が燃え上がる始末で、日常生活の中での工夫は少しもできず、何をしていても驚いたり悲しんだりすることが多く、心も身体も常に怯弱で、両腋にはいつも汗をかき、眼にはいつも涙を浮かべ、修行によって力を得るなどとということは、まったくなかったのでした。」
そんな静かに坐るという修行も大切なことは大切なのですが、そこに止まっていてはいけないのです。
白隠禅師が「多くの盗賊が群れる中を、その黄金を持ってどこそこまで届けよと命じられた男が、胆力を発揮して刀を差して脛をかかげ、黄金を棒の先に突っかけ、たった一人で送り届け、少しも恐れる色がない」というように、うるさい、さわがしいところであっても、そこを嫌うことなく、大きな意志をもって、突き進むのであります。
さわがしいところを、嫌って静かなところで坐ろうというのでもなく、またさわがしいところのさわがしい様子を観察するのでもなく、そのまっただ中に入ってゆくのであります。
ただ注意しないといけないのは、ただやみくもにさわがしい中に入るだけだと、その中に呑み込まれてしまう可能性があります。
そこで、「気を丹田に落ち着けておく」ということが大事なのであります。
白隠禅師も
「まずは養生を第一とし、あわせて内観の法によって工夫されるならば、いずれ、求めなくても、思いがけぬ悟りがあり力を得ることがいくたびもあるでしょう。とにかく、坐禅の時も日常生活の間も区別せずに、つねに綿密に修行して行くことがもっとも大切なことです。ともすれば、日常活動の中での工夫より坐禅中の工夫のほうが効率的だと思われましょうが、そうではありません。」
と説かれているのです。
それと、もうひとつ大事なのは、この譬え話では、どこへ何の目的でこの大事なものを届けるのだという強い意志の力であります。
なんとしてでもこの中を通り抜けて、大事なものを届けるのだという思いが強くなくてはなりません。
この強い思いがあって、気を丹田におさめて、この世の荒波を渡り抜けるのであります。
それが禅の修行でもあるのです。
私たちの持つ大きな願いというのは四弘誓願にほかなりません。
衆生無辺誓願度とは、
生きとし生けるものの悩み苦しみは限りないけれども誓ってこれを救おうという願いです。
煩悩無尽誓願断とは、
わがままな煩悩は限りないけれども誓ってこれを断ってゆこうという願いです。
法門無量誓願学とは、
教えは尽きることが無いけれども誓って学んでゆこうという願いです。
そして仏道無上誓願成とは、
仏道はこの上ないものだけれども誓ってこれを成し遂げようという願いです。
丹田に気をおさめて、この四つの大願を抱いて、この世の荒波を渡るのであります。
横田南嶺