開山さまの涙
これはお二人の開山忌、ご命日の法要のことを言います。
建長寺の開山さま、大覚禅師は、七月二十四日にお亡くなりになられ、毎年の開山忌、ご命日の法要は石も割れんばかりの暑さの中に行われます。
円覚寺の開山さまは九月三日がご命日で、円覚寺は十月三日に法要を行っています。
泣き開山と呼ばれる如くに、なぜかその頃によくしとしと雨が降るのであります。
私も毎年開山さまのご命日の前後に雨が降ると、しみじみああ開山さまの涙だなと思うのであります。
無学祖元禅師は、南宋の国にお生まれです。
一二二六年のお生まれで、一二八六年鎌倉でお亡くなりになっています。
ちょうど六十年のご生涯でした。
一三歳で出家して中国五山の第一径山で御修行になって、当時の南宋の禅界でも将来を嘱望されていました。
しかし、歴史の荒波にもまれることになってしまいます。
大国元が南宋の国を滅ぼしてしまいます。
そんな動乱の最中、自らも命を落としそうになったこともあるほどでした。
五十四歳という当時としてかなりの高齢であり、禅の世界でも相当高い地位にありながら、危険を冒して海を渡り日本に見えました。
言葉も通じず文化も異なる国に来てご苦労をなさったようであります。
しかもあろうことか、弘安四年二度目の元寇があって、祖国南宋の兵士たちは、元軍の最前線にかり出されて、日本に攻めてきたのでありました。
開山さまのお気持ちはいかばかりであったろうかと察します。
元寇が終わり、弘安五年に円覚寺が創建されました。
無学祖元禅師は、その時に敵味方を区別せずに平等に供養しようと発願されました。
最前線にかり出され、海に消えた祖国南宋の兵士たちのことも慮ってのことであろうかと思われます。
涙を流しつつご供養をなされたであろう無学祖元禅師のお姿がしのばれるのです。
思えば無学祖元禅師はご幼少の頃から、動物が屠殺されるのを、見るとまるで自分のことのように思われたと言われます。
深い感受性をお持ちであったようなのです。
御開山さまの語録には、たとえ海の水が干上がったとしても我が涙は枯れることはないという言葉もございます。
そして円覚寺を創建するに当たって、華厳の教えに基づいて開山されたのでありました。
円覚寺のご本尊は、仏殿にお祀りされている宝冠釈迦如来でありますが、これは華厳の釈迦とも呼ばれてきました。
円覚寺の開山仏光国師の語録を拝見しますと毘盧遮那仏をお祀りしたと書かれています。
毘盧遮那仏とは、まさしく華厳の仏様なのであります。
毘盧遮那仏というのが、どういう仏様かというと、光があまねく照らすという意味であります。
そしてそれはこの大宇宙をすべて包み込むような実に広大な仏様で考えが及ばないほどなのであります。
華厳の教えでは、孤立している現象など、この宇宙に存在しないと説かれます。
一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にあるというのです。
華厳の用語でいえば、”重重無尽”といって、たがいにかかわりあい、無限に連続し、かさなりあって、その無限の運動をつづけている世界全体が毘盧遮那仏の現れであると説くのであります。
実に毘盧遮那仏は広大無辺なる仏様なのです。
華厳の教えには、帝網(たいもう)珠(じゆ)という喩えがあります。
インドラ神の宮殿である帝釈天宮に、それを荘厳するために幾重にも重なり合うように張りめぐらされた網があります。
それが帝網ともいわれます。
その網の一つ一つの結び目に宝珠がつけられていて、数えきれないほどのそれら宝珠が光り輝き、互いに照らし映し合い、さらに映し合って限りなく照応反映する関係にある。
それはすべての存在が重重無尽に交渉し合って互いに入りくんでいくのです。
一粒の光が、まわり一切に影響を及ぼしてゆくのであります。たった一つの光は微少かもしれませんが、無限に広がってゆくのであります。
一人の人の思いや願いが、まわりに大きな影響を与えてゆくことを表しています
一人の人が願いを起こすと、それは光となってまわりを照らしてゆきます。
まわりにも大きな光を与えていきます。
光と光がお互いに照らし合って一つの大きな輝きになってゆくというのが華厳の世界なのです。
その大きな光全体こそが、毘盧遮那佛なのであります。
この世の一つ一つの小さなものの輝き、燦めきが相互に関わりあって全体として大いなる光になるのであります。
そのような、広大無辺なる毘盧遮那仏の現れであるこの世界の中には敵も味方も平等なのであります。そこで怨親平等という教えが出てきます。
無学祖元禅師は単に祖国の兵士も祀ろうというだけでなく、この怨親平等の心をもって、敵味方の区別なくご供養しようとされたのでした。
まさしく華厳の教えを表した寺が円覚寺であります。
無学祖元禅師の語録には、いくら修行しても悩みや苦しみが尽きない者をどうするかという問題が提起されています。
古来禅の世界では、三十棒を喰らわすとされてきました。そんな迷いや悩みを打って打ってたたきつぶすのだというのであります。
しかしながら無学祖元禅師は、自分はそんなことはしないと仰せになっています。
私は、ただ涙を流すのだ、そしてたとえ海の水が枯れて無くなったとしてもわが涙は尽きることはないと仰せになっているのであります。
泣き開山と呼ばれるのは、こんな仏光国師無学祖元禅師の教えも関わっているとおもうのであります。
それだけに、雨が降ると御開山の涙と思いありがたくおもうのであります。
横田南嶺