籠の月、籠の露
虫もよく鳴いています。
鈴虫よ 鳴け 籠の月 籠の露(正岡子規)
という俳句を思い起こします。
そしてこの句を思い起こすと、「雲は天に在り、水は瓶に在り」という禅語も思います。
これは薬山禅師の言葉です。
八世紀の後半から九世紀頃にかけて活躍された中国唐代の禅僧に、薬山という方がいらっしゃいます。
中国において禅が最も栄えた頃であります。
とりわけ、この薬山禅師という方は、禅僧の典型、模範とされた方でもあります。
石頭禅師について修行を終えてから、澧陽の山中に入り、はじめは農家の牛小屋で坐禅していました。
気味悪がった農家の人達が出て行って欲しいと頼んでも薬山禅師は動きません。
とうとう農家の人達はその牛小屋に火をつけて燃してしまいました。
これでいなくなるだろうと思ったのですが、果たして薬山禅師は燃えつきた小屋の跡地で端然と坐禅していたのでした。
農家の人達もあきらめて、その地を坐禅堂に寄進したというのです。
そんな薬山禅師のもとに修行僧が集まっていつしか禅の道場となりました。
修行僧も集まったことから、ある日のこと、薬山禅師に皆に説法してもらいたいと、修行僧の頭にあたる者がお願いしました。
薬山禅師は、ひたすら自らの坐禅修行に打ちこんで説法などなさりません。
それでも、説法を何度も頼んでようやく引き受けていただいたので、皆を集めました。
ところが薬山禅師は皆の前に出て、一言も発すること無く壇を降りてしまわれました。
「どうして何もお説法下さらないのですか」と問う僧に、薬山禅師は「お経の解説ならお経の専門家がいる。禅僧のワシが黙っていて何がいけないのか」と叱咤したという話が伝わっています。
禅僧は古来「黙によろし」(黙っているのがよい)とされているからなのです。
また薬山禅師は、いつも雲水の皆とは共に食事せずに、一人別に煮炊きして食べていました。
しかも人一倍元気で血色もよいのです。
不審に思ったある修行僧が、禅師は何を召し上がっているのか、こっそり煮炊きしている鍋の中をのぞいてみました。
すると、中には道場でも食べられずに捨ててしまっていた、野菜や菜っ葉の切れ端が炊かれていたのでした。
それを見て一同驚いたのでした。
修行道場では、食べ物を大事にしていることは言うまでもありませんが、それでも野菜の切れ端などは出てしまいます。
それをひそかに集めて、誰にも言うこともなく自ら召し上がっていたのでした。
そんな薬山禅師のことが評判になって、役人の耳にまで届きました。
その地の知事に赴任した、李翺という役人が、薬山禅師の評判を聞いて訪ねてきました。
名のある役人の来訪にも薬山禅師は気にもとめずに、黙って経典を手にして一心に読んでいました。
李翺が「如何なるか是れ道」、仏道とは如何なるものですかと問いました。
薬山禅師は、片方の手で天を指し、片方の手で地を指して、「分かりますか」と言いました。
「分かりません」という李翺に、薬山禅師は一言「雲は天に在り、水は瓶に在り」とのみ答えられたのでした。
説明の必要も無いほどに明解な言葉です。
雲は天にあり、水は水瓶にあるのです。
真理は、この現実の世界を離れて遠いところにあるのではなく、この目の前に現れているということと解することができます。
松原泰道先生の話を思います。
松原泰道先生は、戦後しばらく巣鴨プリズンに通って、先の太平洋戦争の戦犯の方々に法話をなさっていらっしゃいました。
与えられた法話の時間はわずか五分だったとうかがいました。
しかも米軍の兵が同時通訳で聞いていて、少しでも連合国の批判でもしようものなら即座に中止されるというものだったというのです。
話を聞く方も命がけだし、話す方も命がけで、あれほど大変な法話は無かったと語っておられました。
そんな限られた時間の中、先生は古人の俳句「鈴虫よ鳴け 籠の月 籠の露」という一句にすべての思いを託して話されました。
米軍の兵に翻訳されても深い意味までは伝わらないと思われたのでしょう。
しかし、この句の「鈴虫は何も悪いことをしていないのに小さな籠に閉じ込められています。しかしその狭い籠にもお月様の光はさしてくるし、葉におりる露も見ることができます」という意味に、
「あなた方もこの裁判によって、今や、竹籠ならぬ鉄格子の中に閉じ込められています。しかしあの鈴虫が、狭い竹籠の中にあっても、月の光の中を精一杯鳴いているように、こんな逆境の中でもどうか、あきらめずに精一杯生きて下さい」という万感の思いを託されたのであります。
雲は空に浮かび、水は水瓶にある、当たり前のことですが、一度、当たり前でない世界を経験してこないと、当たり前のことに深く感動して受け止めることはできないのだと思います。
戦中戦後の苦労などには及びもしませんが、コロナ禍という日常が奪われてしまった中にいると、しみじみと変わらずお月さまが空に輝くことを有り難く思います。
変わらず虫たちが鳴き、水のある暮らしのできることを尊く思うのであります。
横田南嶺