それこそ仏のこころ
そんな取材を受けたりします。
またそんなことを意識して話をしたりします。
そういう場合、やはりなんといっても仏教でありますから、お釈迦様の説かれた三つの真理、三法印を説くようにしています。
第一は諸行無常です。
すべてのものは移り変わっているのだという事実であります。
すべては変化する理を見つめて心を正しく調えることです。変化を受け入れて生きることです。
コロナ禍といいますが、これも人類の歴史からみれば、過去に何度もくり返されてきた変化の一コマであります。
また移り変わるということは、私達の命も、毎日毎日、刻々と変わっていくのだから大事にしなければいけないということにも通じます。
それから二番目が諸法無我です。
この世にあるものひとりあらずと申します。
自分だけで存在しているのではないということです。
お互い誰しもご両親のおかげで命をいただいています。
今日まで多くの方々のおかげで生きてこられました。
太陽の光や、空気や水、大地、食べ物いろんなもののおかげで生かされています。
自分が自分がというふうに考えるのでなく、私はたくさんの方々のおかげで生かされているのだと受け止めます。
三番目が涅槃寂静で、己れなき者にやすらいありと申します。
すべては移り変わり、もろくはかない中に、お互いは支え合い、思い合って生かされている、自分の命というものは、自分ひとりのものではないのです。
そのことに目覚めたらば、この命をみんなのために尽くそうと願い行動する、そこにこそ、まことの安らぎがあるのです。
そんなお話をするようにしています。
あるところで、といってもオンラインでありましたが、そんな話をした後で、主催者の方から質問をいただきました。
自分はこうしていろいろ勉強して人の為に尽くして生きることが大事だと学んで、何か人の為にと思って尽くしていても、どうしても心の中で見返りを求めてしまうというのです。
自我がどうしてもとれない、これをどうしたらいいのかという質問でした。
こういう真摯な質問をされる方は、真面目な方であります。
私は、自我というものはそう簡単に取れるものではありませんということから話し始めました。
その方が決して特別なのではなく、誰しもそうであります。
大事なことは、その方が、「自分は自我が取れない」と気がついていることです。
どうしても自分のことを考えてしまうということに気がついているのであります。
そのことが尊いのであります。
本当に、百%わがままな、自分だけのことを考えている人ならば、自分には自我が取れないなどということは気がつくことがありません。
これではいけないと気がついている心があるのであります。
そして、その心こそが仏であると伝えたのでした。
自我意識は、晴れた空に雲が起こるようなものです。
それによって、晴れた空が汚れるわけではありません。
キレイな鏡のうえにホコリがちょっと着いたようなものです。
それによって、鏡が汚れるわけではありません。
『法句経』の173番に、
「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。ー雲を離れた月のように。」
という言葉があります。
雲がかかったからといってお月様が汚れるわけではありません。
見返りを求める心があるといっても気にすることはないのです。
そのことに気付いている事が大事であります。
気付いている心が仏様の心なのです。
法灯国師は、「念起即覚」ということを説かれました。
仏心は、大空のようなものです。
そこに念が起こるのは、晴れた空に雲の湧くようなものなのです。
生じたものは、必ず滅するのです。
盤珪禅師は、「譬ば鏡にうつる影の如し。鏡は明にして向ふ程の物を移せども、鏡の内に影をとどめず。仏心の鏡より万倍明かにして、しかも靈妙なる故、一切の念は其の光の内にきえて跡なし。此の道理をよく信得すれば、念はいか程起こりても、妨げなし。」と説かれました。
鏡にうつる影のようなもので、その影は、鏡に残るものではありません。
仏心は、そんな鏡よりも千萬倍も明らかなので、どんな念であろうと、仏心の光りの中に消えてしまって、跡形も残らないのです。
あるいは、自我意識などは、影のようなものとも言えましょう。
影があるということは、それよりももっと大きな光りに照らされていることの証でもあります。
そこで、「念の起こるは是れ病、続がざる是れ薬」という言葉があるのです。
念が起こったとしてもそれ以上続がなければ、消えてしまうものです。
ただ、そのわがままな思い、自我意識に振り回されてしまってはどうしようもありませんので、まず気がつくことです。
気がついて見つめていれば、自然と消えてなくなるものであります。
影だと分かっていれば、振り回されることもないものです。
また人間は誰しも、そのように自我意識を持って生きているのだと認識していれば、お互いに慈しみ憐れむ心も起きてくるものであります。
自我意識があるなと気付いた、その心こそが仏なのです。
横田南嶺