常識を破ってみる
これは、「仏殿走って山門を出づ」と読みます。
意味はというと、仏殿が走って山門を出て行ったということですが、直訳してみても何のことやらさっぱり分かりません。
かとって、これを説明するのもたいへんであります。
だいたい、常識で考えれば、仏殿は走りません。
仏殿というのは、お寺のご本尊をお祀りしているお堂であります。
お寺の中でもかなり大きな建物であります。
そんな大きな建物が、走ることはないのであります。
もっとも、曳家(ひきや)という技法があって、建物を解体せずにそのまま移動させるという方法もあります。
しかし、ここではそのような技法を言っているのではありません。
それに、常識で考えると、仏殿の方が、山門より大きいものです。
おおきな仏殿が、小さな山門をくぐって外に出るなどあり得ないのであります。
こういう理解不能なことを言うので、禅語は難しいと言われるのかもしれません。
これは白隠禅師の書かれた書物『槐安国語』に載っている言葉であります。
「灯籠跳って露柱に入り、仏殿走って山門を出づ」という対句になっています。
灯籠が躍ってはだかの柱に入り、仏殿が走って山門を出たということで、灯籠が躍るということも、柱の中に入るということも、共に常識では考えられないのであります。
これは、まず私たちが思い込んでいる常識を否定しているのであります。
禅語に、「南に面して北斗を見る」というのがあります。
北斗は北斗七星です。
北斗七星を見るには、北の方を向くのが常識であります。
それを、南に向かって見るというのですから、全く常識を破っています。
そもそも常識なるものを否定するために、こういう表現をしているのであります。
北だの南だのということは、人間が勝手に決めたことにすぎません。
北斗七星だの、南十字星だのというのも人間が勝手につけた名に過ぎません。
それが常識となっているだけなのです。
常識というのは、分別の世界であります。
人間が分別意識で、あれこれと分けて名付けたものであります。
これがあるから、日常生活を営むことができますし、集団生活が成り立ちます。
しかし、この常識や分別が時には苦しみを生み出すのであります。
みんなが学校に行くものだというのが今の常識になっています。
それはそれでよいものでありましょう。
しかし、その常識にだけとらわれてしまうと、学校に行かない者を差別したりしてしまいます。
常識を破り、常識を越えた世界に気がついていれば、学校に行かないとしても、それもひとつの生き方として認めることができます。
常識の世界、分別の世界だけしか見ていないと、人間は苦しみを生み出します。
そこで苦しみから解放されるには、常識を破り、分別を離れた無分別の世界、即ち空の世界に目覚めることが必要なのです。
『般若心経』に、「五蘊は皆空なりと照見して一切の苦厄を度す」と書かれている通りなのであります。
無分別、空の世界を体得することによって、苦しみから解放されるというのが、禅の教えなのであります。
その為に、常識を破り、無分別の世界に気付かせようとするのであります。
そこで、常識では考えられない表現をして、常識を越えた無分別、空の世界に気付かせるのであります。
無分別、空の世界を体得して、また分別の世界に戻って暮らしてゆくのであります。
そうすると、分別の世界、常識に世界しか知らない者とは異なって、とらわれが無くなるのであります。
執着が無くなるのであります。苦しみが無くなるのであります。
学校なんて行っても行かなくてもいいと分かっていながら、学校に行っていると、行かない人を責めることが無くなります。
成績なんて何も比べることがないと分かっていて試験を受けていると、どんな成績であろうと苦にすることがありません。
北も南もない、北斗七星もなにも無いと分かっていて、星を眺めていると、星が見えれば見えたで喜ぶし、雲が出ていて見えなければ見えないで困ることは無くなるのであります。
坐禅は、この無分別の世界、空の世界に目覚めるものです。
そこで頭をカラッポにして、お臍の下、丹田に気を充実させます。
頭を中心にしていると、分別し差別し、常識にとらわれてしまいます。
お腹、丹田に中心を置いていると、分別しなくなります。
そのようにして身体で空を感じてゆくのと、「仏殿走って山門を出づ」や「南に面して北斗を見る」という言葉で、常識を否定し、分別を否定するのであります。
そうして、こだわり、とらわれが無くなって苦しみから解放されて自由になるのであります。
坐禅の時の作法や決まり事も、皆無分別の世界に目覚める為のものです。
その作法や規則にとらわれると苦しみになります。
こんなものは本来無いと分かった上で行っていると、こちらが自由になります。
夢を夢と分かって見る夢は楽しいと言われた方がいましたが、空、無分別の世界に気がついた上で、この現実を生きると楽しいものなのであります。
そのために、仏殿走って山門を出づとか、南に面して北斗を見るという表現をしているのです。
横田南嶺