日曜説教
【日曜説教ライブ配信(9/12)】いのちなりけり
臨済禅師のある時のお説法にこういう言葉があります。
「赤肉団上に一無位の真人有り」というのであります。
どういう意味かと申しますと、
「諸君の裸一貫の身に位階なき真人がいる」ということなのです。
しかも、それが顔から出入りしているというのです。
まだ確認していない者は、今こそ看とどけよというお説法なのであります。
真人というのは、仏教では仏といっても同じであります。
仏とは遠くにあるのではないのです。
高いところにあって私たちは、それにひれ伏して伏し拝むというのではないのであります。
私たちの裸一貫のこの身に具わっているというのです。
それが顔から出入りしているということは、目でものを見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わったりしているはたらきをいいます。
それなのに仏が外にいると思って、或いは真理はどこか遠くにあると思って、外に向かって探しもとめます。
そういうことに対して、臨済禅師は、「君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師や仏と同じである」というのであります。
仏法は、すでにお互いに十分に具わっているのであります。そのことが信じ切れないで、外に向かって探し求めることを戒められたのでした。
銘々が生まれながらに具わっているもの、それは言葉を変えると、この「いのち」でありましょう。
この「いのち」について、語りたいと思っています。
横田南嶺