心を置き去りに
十年前に東日本大震災がありました。
多くの人が、人と人とのつながりあい、絆の大切さに目覚めました。
お互いに人は支え合い、思い合い、そんなつながりの中に生きるのだと思ったのでした。
その後も災害は続きました。
同じ年の秋には、紀伊半島大水害がございました。
私の故郷でも多くの方がお亡くなりになったのでした。
先日の九月四日で十年になるのです。
熊本の大地震もございました。
御嶽山の噴火もございました。
西日本豪雨もありました。
その度に人は助け合ってきました。
しかし、このたびのコロナウイルス感染症の蔓延によって、また大きく変わりました。
元来人はお互いに共同して暮らすものであります。
冠婚葬祭や地域のお祭りや行事などで、つながりあって助け合って暮らしてきました。
ところが、今回は、そんな冠婚葬祭は軒並み簡略化、もしくは中止なのであります。
先日読売新聞をよんでいると、長谷川櫂先生の『四季』欄に、
つり革は持ち手の無くて揺れてをりコロナ禍やまぬ令和三年
という高野公彦さんの和歌が紹介されていました。
長谷川櫂先生は、
「触れようとする人もなく、揺れつづける電車の吊革。
人から人へと感染するコロナウイルスの蔓延によって、人類の生活はどう変わるのか。」
と書かれています。
今まででは考えられなかった光景なのでありましょう。
死にそうにならなきゃ病院入れない
入院もさせてくれない国になり
これらは毎日新聞の川柳でありました。
コロナ禍も長くなりました。
はじめの頃は、ほんの雨宿りくらいに思っていたのが、トンネルに入ったような感じです。
それも出口のなかなか見えない、長い長いトンネルなのであります。
ふとこんな話を思い起こしました。
星野道夫さんの「旅をする木」の中にある話であります。
「たしかアンデス山脈へ考古学の発掘調査に出かけた探検隊の話です。
大きなキャラバンを組んで南アメリカの山岳地帯を旅していると、ある日荷物を担いでいたシェルパの人々がストライキを起こします。
どうしてもその場所から動こうとしないのです。
困り果てた調査隊は、給料を上げるから早く出発してくれとシェルパに頼みました。
日当を上げろという要求とだ思ったのです。
が、彼らは耳を貸さず、まったく動こうとしません。
現地の言葉が話せる隊員が、一体どうしたのかとシェルパの代表にたずねると、彼はこう言ったというのです。
「私たちはここまで速く歩き過ぎてしまい、心を置き去りにして来てしまった。
心がこの場所に追いつくまで、私たちはしばらくここで待っているのです。」」
という話であります。
谷川俊太郎さんの「急ぐ」という詩を思い起こします。
こんなに急いでいいのだろうか
田植えする人々の上を
時速二百キロで通り過ぎ
私には彼らの手が見えない
心を思いやる暇がない
この速度は早すぎて間が抜けている
苦しみも怒りも不公平も絶望も
すべてが流れてゆく風景
こんなに急いでいいのだろうか
……
という詩であります。
今や、新幹線に乗ることなどは、日常になりつつあって、こんな思いを抱くことも稀であります。
コロナ禍となって、講演などの行事がほとんど無くなりましたので、私も新幹線に乗ることがめっきり減ってしまいました。
コロナ禍にあって、私は発酵食品を見直して、自分で甘酒を発酵させて作ったり、豆乳を発酵させてヨーグルトにしたりしています。
発酵というのは、じっくり待つことが大切であります。
せかせかしては出来ません。
「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず何か大災害にさらされた日本は、地球上の他のどの地域よりも危険な国であり、つねに警戒を怠ることのできない国である」。
「この動く大地の上では、日本人はただ一つの安全策しか見いださなかった。それは自分をできるだけ小さく、できるだけ軽くすることである。薄く、重さがなくほとんど場所もとらぬようにすることである」。
と言ったのは、大正時代に駐日大使をつとめた仏詩人クローデルでありました。
クローデルは「日本人は自らを取り巻く危険に満ちた神秘への感情を決して失わない」とも言ったそうです。
目に見えない大いなるものへの畏敬の思い、慎み、謙虚さ、何か大切なものを置き去りにしてしまったのではないかと考えます。
祈る心、力無き身として、謙虚に祈る心、これも置き去りにしてしまったのかもしれません。
かつては、明日天気になれとテルテル坊主を作って祈りを捧げました。
今は簡単に天気予報を見て、明日は雨だということがすぐに分かってしまいます。
天を仰ぎ、地に伏して祈る心、もう一度取り戻したいところであります。
そして、もうひとつ祈られていることも思い起こしたいのです。
「まなこを閉じて、とっさに親の祈り心を察知しうる者、これ天下第一等の人材なり」
という徳永康起先生の言葉を思い起こします。
今日無事でと祈り、無事でいられたことに感謝し、祈り、祈られての一日であることを感謝することを忘れてはならないのであります。
横田南嶺