露
楽々と喰うて寝る世や秋の露
いざゝらば露よ答よ合点か
一茶の露にまつわる句であります。
坂村真民先生に「風」という題の長い詩があって、そのなかに一節に
ある日風が
露にささやいた
わたしたちを
さぞうらんでいるでしょうね
せっかく美しく光っているのに
散らしてゆくのだから
いいえすこしも
うらんでなんかいません
わたしたちは
玉となった瞬間の喜びで
生きているのですから
露たちは
そうさわやかに
こたえるのであった
というのがあります。
この一節が好きで、真民先生の感性が光ると感じています。
『金剛経』というお経の終わりに、
「一切有為の法は、夢幻泡影の如く、
露の如く亦電の如し、まさに是の如くの観を作すべし」
とあります。
あらゆるものは、夢幻のように、水面に浮かぶ泡のように、影のように、そして露の如く稲妻のようにと観るのであります。
露はもろくはなかいものの譬えであります。
また、禅語として、ただ一字「露」と書くと、全く異なる意味で用いられます。
この場合は、「つゆ」ではなく、「ろ」と読みます。
漢和辞典で「露」を調べてみると、
「大気中の水蒸気が冷えて液化し、水滴となって、物の表面に付着したもの」とあります。
これは「はかないもの。また、うるおいや恩恵にたとえる」とも説明されています。
これは「つゆ」です。
それから、動詞として「さらす。つゆに当てる。雨ざらしにする」という意味があります。
「露天」や「露宿」という用例があります。
それから更に同じ動詞として「あらわす。あらわれる。表に出す。透けて見える」という意味があって、「暴露」「露見」という用例があります。
それからまた動詞として、「あらわれる。風雨にさらされて、中が透けて見える。囲いや おおいがなくなって、むき出しになる。」という意味もあります。
平田精耕老師の『禅語事典』には、雲門禅師の言葉として説明されています。
「一僧が、あるとき雲門禅師に問いました。
「父を殺し母を殺しては仏前に向かって懺悔す。仏を殺し祖を殺していずれに向かって懺悔せん」
臨済禅師の「無明は是れ父」「貪愛を母となす」の語からすれば、父は無明(煩悩)、母は貪愛(執着)の意ととれます。
したがって前半の句は、その無明と執着を捨てるという意味です。
「仏を殺し祖を殺す」は最高に尊いもの、聖なる境地をも断ち切って捨てるという意味です。
これに対し、雲門禅師はただ一語「露」と答えた。」
というのであります。
父を殺すだの、母を殺すなどとは随分物騒な言葉ですが、平田老師のご説明の通り、これは無明と執着を殺すことを表しています。
更に平田老師は、
「雲門禅師にとっては見るもの聞くもの、すべてが仏性の妙理、大道の露現ならざるものはなしです。「露」はあらわれると読みます。
すなわち、これほど目前に一点として隠すところなく、むき出しに現われているのに、それが見えないのか、というわけです。」
と解説されています。
そこから更に、
「世界中どの人をとっても、人間である以上はみんなその心の本来は仏の心だからです。
世界中に仏の心の表われでないものはひとつもありません。」
と説かれて、
「それこそ、樹木に吹く風の声を聞いても、川のせせらぎを聞いても、美しい山の姿を見ても、また雪隠のうじ虫にいたるまで、すべて仏の心の表われとして受け取ることができるようになります。」
と説いて下さっています。
こういうところが禅の教えの本領なのであります。
『涅槃経』に、
「一切衆生悉有仏性」
という言葉があります。
「一切衆生、悉く仏性有り」というのであります。
これを余語翠厳老師は、
このような読み方をすると、
「すべてのものには仏性がある、すべてのもののなかには仏さまになる性質があるという意味ですな。この解釈の導くところは、その仏性が現れるような生き方をしなさいという“修行の勧め”です。
ところが道元禅師の解釈はまったく違うのです。道元禅師はこう読むのです。
一切衆生、悉有は仏性なり。
つまり一切衆生、悉く有るものは全部仏性だというわけです。
悉く有るものとは現成、森羅万象ですから、およそこの世に存在するものは、修行などとは関わりなく、一切合切がすでに仏性なのだという。それが道元禅師の解釈です。一般的な解釈とはまるで違うことはおわかりでしょう。」
と解説されています。
森羅万象すべてが、仏性の現れなのです。
そこで道元禅師は
峰の色溪の響きもみなながら
わが釈迦牟尼の声と姿と
と詠われたのでした。
九月三日の読売新聞の「四季」欄に
日常の些事は人生(ひとよ)を豊にす
茄子煮が上手(うま)く出来たことなど
という高野公彦さんの和歌が紹介されていました。
長谷川櫂先生は、「妻に先立たれた夫は大変である。それまで妻が担当していた家事一切をやることになる。しかしそこに新しい喜びを見出す人もいる。この人のように。」と解説して下さっています。
台所で秋の茄子を丁寧に煮る、そんな些事にも仏の心は、まるごと現れているのであります。
日常のあらゆる営みに、仏の心が現れていると説いたのが禅であります。
「露」の一字は深いのです。
横田南嶺