好事も無きには…
これは、『碧巌録』にあって、禅語として用いられています。
入矢義高先生の『禅語辞典』で調べてみますと、
「好事は無きに如かず」と書かれていて、意味は、「うまい話はない方がましだ。」ということであります。
平田精耕老師の『禅語事典』には、
「好事とは善いこと、喜ばしいことなどです。どんなに価値があろうとも、それがあることにより、分別や執着心が起こり、煩悩妄想のもとになります。この句は、これを戒め、吉凶・好悪を分別したり吉事、好事に執着する心を捨ててしまいなさいという意味です。そして、さらに捨てるという意識も捨て去るところに悟りが開けるのです。」
と解説されています。
善いこと、喜ばしいことも、却って執着になってしまうので、無い方がよいということであります。
『広辞苑』を調べて見ますと、好事は「こうじ」と読んで、「よいこと。めでたいこと」という意味と、「よいおこない」という意味が書かれています。
よいおこないという意味では、道元禅師の『正法眼蔵随聞記』にある「好事なりとも無からんには如かじ」という用例が示されています。
これは唐代の禅僧の南泉禅師が、禅問答において特別なはたらきをされたことを取りあげて、それは修行僧を悟りに入らせる為の行いだといっておきながら、たとえ結構なことだといっても、ないにこしたことはないという文脈で用いられています。
そこで「よい行いであっても無い方が良い」というのであります。
好事にはいろんな用例があります。
「好事魔多し」はよく使われます。
「よいこと、うまくいきそうなことには、とかく邪魔がはいりやすいものである」という解説がございます。
それから、『広辞苑』にも「好事も無きに如かず」という用例が示されていて、ここには『碧巌録』にある言葉として、「人生は無事な方がよい。たとえ好事であっても、あれば煩わしいから無い方がよい。」という解説がなされています。
それから、「好事門を出でず」という言葉もあります。
こちらは「悪事千里を行く」と対句であって、よい行いや評判は、とかく世間につたわりにくいことを言います。
逆に悪いことは、すぐに広まるのであります。
またもうひとつ、好事を「こうず」と読む場合があります。
『広辞苑』には、好事を「こうず」と読んで、
「かわった物事を好むこと。風流を好むこと。ものずき。」という説明があります。
好事家と書いて「こうずか」と読みます。
これは「ものずきの人や風流韻事を好む人」のことを言います。
禅の語録では、古い読み方として「こうず」と伝わっています。
朝比奈宗源老師が訳註された『碧巌録』には「こうず」とルビが振られています。
この好事も無きに如かずの古い用例が、『趙州録』であります。
趙州和尚が仏殿を通って、一人の僧が礼拝するのを見かけました。
仏殿は仏様をお祀りしているお堂ですから、僧が礼拝していることは何も不思議でもありません。至極当然のことであります。
ところが、趙州和尚は、僧が礼拝しているのを見て、なんと棒で打ったのでした。
趙州和尚というお方は、同時代の臨済禅師や徳山禅師と異なり、棒で打ったり喝と言ったりせずに丁寧な言葉で教え示す家風であります。
それが珍しく棒で打っています。
僧が、礼拝することはよいことではありませんかと言うと、趙州和尚がそこで、「好事も無きに如かず」と答えたのでした。
よいことも無い方がいいというのであります。
牛頭法融禅師が、坐禅をしていると、多くの鳥たちが、花をふくんで飛んできたという逸話があります。
その後、四祖道信禅師にお目にかかってからは、鳥も飛んで来なくなったというのであります。
これなども、「好事も無きに如かず」でしょう。
鳥たちが花を捧げに来るなどというのは、すばらしいことに違いありません。
しかし、そんなことも無い方がよいのであります。
趙州和尚が「好事も無きには如かず」と言ったのは、私たちを迷いの凡夫とみて、そこから遠くに仏様を仰いで拝むということでは、まだ十分ではないということです。
平田精耕老師は、この言葉を更に解説されて、
「このことばの意味は、人間は好いことがあると幸せと感じ、悪いことがあると困り、苦しむということです。
しかし、ただ好いこととか悪いこととかの世界だけにとらわれていると、好いことがあった場合には有頂天になり、反対に悪いことが起こると突如として落胆し、心がかき乱されてしまうということになります。」
と示されています。
人間は少し善いことがあると有頂天になってしまいます。
逆に思うようにいかないと落ち込みます。
平田老師が、「人間の心というものは、好いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しみます。」という通りです。
そして更に、
「しかしながら、そういう心の出てくる最も根本のところが実相無相で、好いことを喜ぶ心でもなければ、悪いことを憎む心でもありません。
そういう喜ぶ心とか、憎む心とかいうものがなくなった人間の心の最も根源のところを、好事も無きに如かずといういい方をしているにすぎません。」
と説かれています。
良し悪しと区別する心を離れるのです。
これは無分別であり、空の世界であります。
仏心の世界でもあります。
そこを体験した上で、
「そういう心をもって、好いことがあったら大いに喜んだらよろしい、いやなことがあったら大いに憎んだらよいのです。」と、
平田老師はお示しであります。
仏にも何もとらわれなくなって無心に礼拝するのでしたら大いに結構なのです。
かの黄檗禅師が
仏について求めず、法について求めず、衆について求めず、常に礼すること是の如しと言われたのはそこのところであります。
あまり尊いもの、清らかなものと執着すると、それがまた却って汚れになってしまいます。
なかなか難しいことでありますが、「好事も無きには如かず」とは、味わいの深い言葉であります。
横田南嶺