どう死を迎えるか
円覚寺にも住されていて、円覚寺の第十五世であります。
円覚寺の開山仏光国師のお弟子でる仏国国師のお弟子であります。
開山さまの孫弟子にあたる方であります。
伊勢のお生まれで、八歳で出家して、天台や真言の教えを学んでいました。
十八歳の時に、ある師について天台の講義を受けていました。
その講師が、死に臨んで取り乱してしまった様子をまのあたりにして、大いに悩みました。
ふだんいくら博学を誇っていても、死に臨んでは何の役にも立たないことに愕然としたのでした。
そこで、禅の道を目指すようになったというのであります。
禅では、生死の一大事に取り組みます。
五祖法演禅師は、「生死」の二文字を額に貼り付けて、坐禅せよと示されました。
死を見つめて修行するのであります。
古人は「平日口頭三昧を学んで禅を説き道を説き仏を呵し祖を罵るも這裏に到って用不著」と言っています。
これは、いくら本を読んで学問があって禅を自由に説くことが出来ても、死に臨んでは何の役にも立たないということです。
また古人はこういうことも述べています。
「あらかじめ打不徹ならば臘月三十日到来せん時儞が熱乱を管取せん」というのです。
この生死の問題をあらかじめ体力気力のある内に成し遂げておかないと、臘月三十日というのは臨終の時であって、いざ死に臨んで、あたふたとしてどうにもならなくなることうけあいだといわれております。
金子大栄先生が仏教を定義して、「仏教の教えとは死を問いとしてそれに答えるに足る生き方を教えるものである」といわれたと松原泰道先生は示されています。
死という問いを自らに投げかけて、十分それに答えるに足る生き方を求めるのであります。
釈宗演老師の『観音経講話』を読んでいて、この生死の問題について宗演老師が書かれていました。
宗演老師は、
「いろいろの苦悩に出遭った時にいろいろの災難厄難はたくさんあるけれども、一番苦しいのは死の一事である。
この時に当たって宗教心のあるかないかによってたいへん趣きが違う。」
と書かれています。
いろんな苦しみがあるでしょうが、人は死ぬということほどの大きな問題はないのであります。
そこで更に宗演老師は
「実は私も近頃珍しいことに出遭った。
これまで亡くなった人に引導を渡してくれという頼みにはしばしば出遭ったが、世の中が進んだためか死に臨んでまだ息を引き取らないうちに、一言半句でもいいから話をして安心を与えてくれという依頼を受けた。
予て私はそう思っていたが、死んだ後に引導を授けたりいろいろお経を読んだりするのは、ありがたいものではあるけれども、実は生きているうちに安心を極めてやらなければならない。
また私は宗教者としてその人の精神を救ってやらなければならない。
少なくとも一種の慰安を与えてやらなければならない。
それがむしろ本当だと思っていたが、近頃そういうことに出遭った。」
というのであります。
最近でも仏教界では、死んでからの弔いも大切でありますが、死に臨んで如何に人を導いてあげるかということも問題にしています。
そこで、臨床宗教師や臨床仏教師の養成にも取り組んでいます。
キリスト教では、臨終に際して神父や牧師が、立ち会い神に祈りながら死を迎えるということをなさってきています。
なかなか仏教では、どうしても死後の供養に携わることが多く、臨終にまでは難しいのが現状であります。
大事なことでありますが、臨終に立ち会うということはたいへんなことでもあります。
それだけに、臨床宗教師や臨床仏教師になるのには、長い期間かけて研修を受けることになっているのであります。
宗演老師が、臨終に際してどのようなことを説かれたのか参照してみましょう。
「最近においても 名は言わないけれども、なにとぞ親の心として娘はすでに病が激しいために、言わばその方は箸を投げてしまったが、せめては息のあるうちだけは幾分なりともその苦しみを少なくしてやりたいから、何か話をしてもらいたいということであった。」
というのであります。
そこで話をされたそうですが、ふだんから仏教に触れていないと、急に言われてもなかなか難しいと書かれています。
そして宗演老師は、
「いま息を引き取ろうという娘に、小さい数珠を一つ持って行って与えた。
だんだん考えてみると、この際難しい話を聞かせたところが仕方がない。
それよりも簡単に安心のできるようにと、私は珠数を持って往って娘に授けて、苦しくなった時にこの珠数を握って口で南無観世音菩薩と念ずるだけでもよい。
とにかく苦しい時にはちゃんとこの珠数を握っているよう、これを握っていさえすれば、少なくとも大なる苦しみは減るであろうと申したところが、いろいろ喜んで、当人は莞爾として病苦も薄らいだようであった。
先だって両親が出て来て、あの時珠数をやってくださったので病人がたいへん喜んでいると申していた。私はかげながら喜んでいる。」
ということをなさったのでした。
なんだその程度かと思われるかもしれませんが、少女であろうと、大人であろうと、人間いよいよの時には、何かにすがりたいものであります。
お数珠ひとつでもそれをしっかり握って、観音様を念ずるというのは、大きな力になるものであります。
大いなる力、大いなる御仏にすべてを委ねることによって、安らかな思いになるものであります。
思えば、私の得度の師である小池心叟老師もお檀家や信者さんで、もういよいよという時にはお数珠を持っていって差し上げて、手に握るようにと勧めていたのでありました。
禅僧らしからぬと思うかもしれませんが、これもまたひとつの安心になるものだと思います。
幼い子への、宗演老師のお慈悲の心を感じるのであります。
人は皆仏心の中に生まれて仏心の中に生きて、仏心の中に帰るという事実は決して変わるものではありません。
横田南嶺