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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.09.06
今日の言葉

一撃

私が今住んでいる建物を「一撃亭」と申します。

もっとも古くは、「いっきゃくてい」と読んでいました。

一撃亭は、江戸後期に円覚寺を再興された大用国師誠拙禅師がお建てになったものであります。

もっとも一度関東大震災で倒壊して、今の建物は昭和のはじめに建て直したものです。

一撃という名前には由来があります。

一番のおおもとは香厳和尚の逸話であります。

唐代の禅僧香厳和尚は、お若いころから非常に怜悧俊発、一を問えば十を答える、弁も立つし聡明な方でありました。

この方が潙山(いさん)和尚の下で修行していた時に、潙山和尚から一つの問題を出されました。

「あなたがまだ親から生まれる前の、本来の自己とはどのようなものか」という問いでした。

聡明な香厳和尚のこと故、すぐさま答えを示しますものの、潙山和尚からは否定されてしまいます。

何を答えても、潙山和尚はその悉くを否定して全く許さないのでありました。

とうとうさすがの香厳和尚も答えることが無くなって、潙山和尚に答えを求めましたが、潙山和尚は、私が答えてあげれば、それは私の答えであって、あなたのものにはならないと突き放してしまいました。

とうとう行き詰まってしまった香厳和尚は、今まで学んで蓄えてきた仏法についてのノートを全部、「画餅(がべい)は餓(う)えを充たさず、」絵に画いた餅では腹はふくれないと言って焼却してしまいました。

そこで当時中国で慧忠(えちゆう)国師と讃えられた祖師のお墓の掃除をしようと、墓守になったのでした。

毎日毎日ただひたすらお墓の掃除をしていました。

掃除をしながらも、本来の自己とは何か深く参究していたのでありましょう。
 
ある日のこと、落ち葉を掃いて集めて、竹藪に捨てたところ、落ち葉の中に小石が混ざっていたのか、その小石が竹に当たってカチーンと音がしました。

その音を聞いてたちまち気がつきました。

「そうだこれだ」と。

そこではるかに潙山和尚のいらっしゃる方に向かって恭しく礼拝をしました。

「あのときに何も教えてくれなかった、そのおかげです。もしなにか教えてくれていたら今日の喜びはありませんでした」と深く礼拝して感謝したのでした。

そのときの悟りの心境を漢詩に表しています。

その冒頭の一句が、「一撃所知を忘ず。更に修治(しゆうじ)を仮(か)らず」というのであります。

小石が竹に当たって、カチーンと響いた、その音、カチーンと聞いた端的、これは学問が有るだの無いだの、性格だの経歴だの、何にも関わりないのです。

カチーンと鳴ったら、そのままカチーンと響く、こちらもただカチーンなのです。

これを純粋な心のはたらきとでも言いましょうか、命の躍動とでも表現しましょうか、これこそが本来の自己にほかならないのであります。

「更に修治を仮らず」ということは、修行を積んだから聞けたわけではなく、音を聞こうと心構えを十分にして聞けたわけでもないのです。

修行するしないも、知識のあるなしも関係なしに、ただカチーンと聞いただけなのです。

朝比奈宗源老師は、「禅というものは難しいと言えばいくらでも難しいけれども、(老師、卓一下)このカチンと聞いているのは、おそらく貴方方もカチンと聞いている所に、学問のあるなしも、若いも年寄も、男性も女性もないんです。

(卓一下)ただカチン。

(卓一下)この何らの意識も分別も加える余地のない心境が解っていただくと、十方之世の世界もわかる。この(卓一下)カチンはカチン切りです。」と『人はみな仏である―白隠禅師坐禅和讃・一転語 』という本のなかで提唱されています。

さて、この一撃亭には、小さな門がございます。

一撃という扁額があって、その柱には聯が掲げられていて、開山仏光国師の漢詩が書かれています。

「怪しむこと莫(なか)れ、当路(とうろ)の筍(たかんな)を除かざることを。
要す、君が此(ここ)に来たって立つこと須臾(しゆゆ)ならんことを」と書かれています。

「門のあたり、道の真ん中に筍が出ていますが、この筍をとらないでいることを不思議に思わないでほしい。ここであなたにほんのしばらくでも立ち止まってほしいからなのです」という意味であります。

これは、禅月大師という方の詩がもとになっています。

「竹を養っては当路の笋を除かず、松を愛しては人を礙うる枝を留め得たり」

という句であります。

竹を育てて、道の真ん中のタケノコを取らないでおいておくし、松を愛しては人の邪魔になるような枝を敢えて残しておくということです。

別れを惜しむ詩です。どうか少しでも立ち止まって欲しいという思いを表しています。

この仏光国師の詩の場合は、香厳和尚が、本当の自分とは何か求めて、毎日毎日墓掃除をしていて、小石が竹に当たってカチーンと響いた、その音を聞いて気がついた、そんな古人の苦労を少しは立ち止まって、思って欲しいというお気持ちなのであります。何とも奥ゆかしい国師のお心がしのばれます。

その言葉を、円覚寺の中興の誠拙禅師は、一撃亭の門に書かれたのです。

この門を見るたびに、香厳和尚のこと、開山仏光国師の思い、大用国師誠拙禅師などの祖師方の思いがしのばれるのであります。

実際にこの門の字を書かれたのは、天龍寺の桂洲道林禅師なのでありますが、恐らく誠拙禅師がお選びになったのだと思います。

カチンと音がする、聞こうともしなくもてちゃんと聞こえている、これは盤珪禅師に言わせると不生の仏心のはたらきであります。

仏心は、ただいまここに生きてはたらいているのであります。

 
横田南嶺

一撃

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