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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.09.05
今日の言葉

ぬすみごころ

十善戒には、不偸盗という戒がございます。

殺生と偸盗と邪淫と妄語は、四つの大きな破戒であります。

毎月僧堂で二度行っている布薩でも

私が「第一不殺生」と唱えて、

そのあと皆で「すべてのものを慈しみ、はぐくみ育て」と唱和します。

次に私が「第二不偸盗」と唱えて、

皆で「人のものを奪わず、壊さず」と唱和して、

それから「第三不邪婬」と唱えて

「すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことなく」と唱和し、

そして「第四不妄語」と唱えて、

皆で「偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることなく」と唱えるのであります。

盗むということはどういうことでありましょうか。

『広辞苑』をひきますと、

第一に、「他人のものをひそかに自分のものにする。(断りや金銭の授受なしに)持ち出してはいけないものを勝手に持ち去る。」と説明があります。

これは「お金を盗む」とか、「アイディアを盗む」と使われるものです。

これは、もう犯罪になって罰せられます。

それから「ひそかに事をする。人目をごまかす。」という意味があります。

「母の目を盗む」というように使われる場合であります。

それから悪い意味ばかりではありません。

「ひそかに学ぶ。まねする。」という意味で使われることもあります。

よく芸人さん達が「芸を盗む」という場合であります。

これは犯罪になることはありません。

職人さんの世界などでも使われます。

極意は、一々丁寧に教わるものではなく、先輩の姿を見ながら、盗むのだというのであります。

なかなか伝わりにくいことですが、今でもこういうことはあろうかと思います。

それから「(わずかの時間を)繰り合わせて利用する。」という意味もあります。
「暇を盗む」などと使われるものです。

盗むというのは、総じてよくないことと説かれています。

禅の修行においても盗むことを嫌います。

なにを盗むのかというと、悟りを盗もうというのであります。

このぬすみこころを、「偸心(ちゅうしん)」といいます。

中峰和尚などはこの「偸心」を戒められました。

修行して悟りを目指そうということは悪い事ではないように思われます。

しかし禅の修行においては、自ら具わっているものに気がつくことが大切であって、自分にないものを外に向かって求めることはよくないと説かれるのであります。

中峰和尚は、語録のなかで、この「偸心」があるのが迷いであり、「偸心」が無くなったのが悟りだと明確に述べています。

もともと心に特別「偸心」というものがあるわけではありません。

ただ心が外に向かって求めまわるから「偸心」となるのであります。

この「偸心」がある限り、迷いは尽きず、苦悩もやむことはないのであります。

臨済禅師は、「馳求の心」と説かれました。

「爾若し能く念々馳求(ちぐ)の心を歇得(けつとく)せば、便ち祖仏と別ならず。」と説かれています。

訳しますと、「君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。」というのであります。

仏法は、すでにお互いに十分に具わっているのであります。

そのことが信じ切れないで、外に向かって探し求めることを戒められたのでした。

その様子を臨済禅師は「もし自らを信じ切れぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。」と説かれているのです。

そして更に、「君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。

君たちはこれを信じ切れないために、外に向かって求める。」というのであります。

この外に向かって求めるのが馳求であり、「偸心」なのです。

そのあと「しかし何か求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、生きた祖師の心は絶対つかめぬ」と説かれています。

岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳をそのまま参照します。

「当今の修行者が駄目なのは、言葉の解釈で済ませてしまうからだ。

大判のノートに老いぼれ坊主の言葉を書きとめ、四重五重と丁寧に袱紗に包み、人にも見せず、これこそ玄妙な奥義だと言って後生大事にする。

大間違いだ。愚かな盲ども!

お前たちは干からびた骨からどんな汁を吸い取ろうというのか。

世間にはもののけじめもつかぬやからがいて、経典の文句についていろいろひねくりまわし、一通りの解釈をでっちあげて「人に説き示す」ものがいる。

これはまるで糞の塊を自分の口に含んでから、別の人に吐き与えるようなもの、また田舎ものが口づてに知らせ合うようなものでしかなく、一生をむなしく過ごすだけだ。

おれは出家者だと広言はしても、人に仏法を問われると、口を閉ざして答えがなく、眼玉はヤニの付いた煙突みたい、口は「へ」の字に結んだまま。

こんなやからは弥勒の出現に逢っても、かなたの悪地に島流しになり、ついには地獄に寄留して苦しみをなめることになろう。」

と喝破されています。

実に手厳しい言葉であります。

そもそもこうして『臨済録』の言葉を引用しているのが、「偸心」なのであります。

そういうわけで、「偸心」はそれくらいにして、この自分自身にすばらしいものが具わっていることを自覚するためにも、姿勢を調え呼吸を見つめましょう。

 
横田南嶺

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