重荷を背負うて遠き道を
町でもポスターが新しくなっているので、普段あまり政治に関心を持たない私などでも、もう間もなく選挙になるのだろうと、分かるものであります。
選挙になると、議員の世襲制についても議論されたりします。
新聞紙上にも、書かれていましたが、議員の世襲はあまりよく思われていないようであります。
世襲の多い職業というのは、いろいろございます。
歌舞伎などの伝統芸能は、その代表例でありましょう。
ああいう方はたいへんだと思います。
産まれた時から、その後継として育てられて、物心つくか、つかない前から、芸事を習い覚えてゆきます。
そうでなければ、あのような立ち居振る舞いができないのだろうと思います。
老舗の料理屋などもそうでしょう。
こちらも早くから、その伝統に触れていることが大切だと思います。
それに比べると、政治家の場合、優れた政治家のそばで生まれ育ち、いろんなことを学ぶこともあろうと思いますものの、あまりよく思われないようであります。
世襲した政治家が良いのか、良くないのか、私は政治家の方とご縁がございませんので、何とも言えません。
世襲やそうでないということよりも、やはり問題はその人にこそあると思います。
世襲の多いのは、私どもお寺もまたそうでありましょう。
円覚寺に二十数名の修行僧が集まっていても、寺に産まれたのではない者は、ごくわずかであります。
八月は、正受老人の三百年遠諱の記念講演があったために、その数ヶ月前から準備にかかっていました。
今年の前半ではもっとも力を入れた講演でありました。
幸いにまだ妙心寺のYouTubeチャンネルで公開してくださっているようなので、今でも御覧いただけます。
正受老人については、資料が少なく、調べるのに難儀しました。
特に分からないのが、修行時代のことでありました。
至道無難禅師のもとで出家して修行したのは間違いのないことですが、『正受老人崇行録』には、一時「後東奥に往いて虎哉、一源等の諸老に参ずること数年」と書かれています。
東奥と書かれていますので、関東や奥州を訪ねて、虎哉和尚や一源和尚に参じたということなのでしょう。
ところが、この虎哉和尚は、正受老人のお生まれになる前に亡くなった方であって参禅したことはありえません。
一源は一元和尚のことで、こちらは福島県三春の高乾院にいた禅師であります。
こちらは、正受老人が行脚した頃に、雪村庵というところにいらっしゃったので、参禅したことの可能性は高いものであります。
この一元和尚のもとで、楞厳経の講義を聴いて、正受三昧の真髄に触れて、自らを正受と名乗るようになったという説もあります。
これは『妙心寺史』に書かれているものであります。
もうひとつ、法雲寺正受庵にも修行に行ったのではないかという説もございます。
こちらはあまり知られていないものです。
もっとも正受老人がそこに行ったという確かな資料がありませんので、推測でしかありません。
正受老人が行脚した頃の法雲寺の住持は乾甫和尚といって、正受老人の師である至道無難禅師の従弟にあたる方でありました。
また法雲寺は、正受庵と呼ばれたいたのでありました。
しかもその法雲寺正受庵というのは、日本のおける幻住派の中心的な存在であったのでした。
幻住派というのは、元の時代の中峰明本禅師の系統の一派であります。
中峰禅師は、修行を成就したあとも寺の住持になることを断って、各地に幻住庵という庵を構えて、転々として修行と教化をなさっていました。
当時の中国の名刹の住持にと請われても断り、皇帝から召されても応じなかったのでした。
そんな世俗を脱した禅風を慕って、日本からも多くの僧が、中峰禅師に師事したのでした。
滋賀県にある永源寺の開山、寂室禅師なども元に渡って、中峰禅師の教えを受けた一人でありました。
業海本浄禅師も元に渡って中峰禅師に参じて帰国しました。天目山棲雲寺を甲斐国に開いたのでした。
先年、この棲雲寺を訪ねたことがありました。
鎌倉の五山や京都の五山などとは全く異なる、山中の寺で、中峰禅師の幻住という禅風を肌で感じることができて感動したのでした。
遠渓祖雄禅師の開山されたのが、丹波の高源寺であり、こちらもよく知られています。まだ私は訪ねたことがありません。
古先印元禅師が開山された寺は、円覚寺派にもございます。
そして中峰禅師に参禅して帰国した一人に、復庵宗己という方がいらっしゃって、三春の福聚寺の開山でもあります。
三春の福聚寺は、作家でもある玄侑宗久和尚が住職されているお寺で、こちらには先代の和尚の葬儀の導師を務めるのにお訪ねしたことがあります。
その復庵禅師が開山された、もっともおおもとのお寺が法雲寺なのであります。
高岡の法雲寺と称されています。
高岡は、今土浦市に合併されています。
そこが関東における幻住派の中心的存在のひとつである名刹なのであります。
正受老人が、大寺院の住持になることを断り、水戸黄門などの権力者からの要請にも応じないという家風は幻住派に通じますし、ときの住持が、師の至道無難禅師とご縁が深いとなると、訪ねた可能性は高いと思われます。
至道無難禅師が、正受庵という庵の名を書いた額が残っていますが、この正受庵から取ったとも考えられるのであります。
しかしながら、資料がない以上は、推測の域を出ないのであります。
そんなことを何日も調べていて、ふと高岡の法雲寺という寺の名前に聞き覚えがあると思いました。
そうだこの春円覚寺に修行に来た修行僧に法雲寺のお弟子がいたと思い当たりました。
早速の彼に、あなたのお寺は法雲寺で昔正受庵と呼ばれていたのですかと聞くとその通りなのでした。
一所懸命に調べていたお寺の、お弟子がそばにいたのでした。
それから、更に関心をもって法雲寺のことを調べてみると、調べれば調べるほど、幻住派の名刹であり、たくさんの寺宝を持っていることも分かりました。
復庵禅師が、中峰禅師に参じて、中峰禅師自賛の頂相を頂いて帰ってきて、その頂相が今も伝わっているのです。
中峰禅師の頂相はほかにもございますが、自賛のものは稀であります。
これは中峰禅師から直接印可された証でもあります。
そんな名刹に産まれて、その寺の跡取りになるというのはたいへんな重荷だなと感じたのでありました。
修行に来ている雲水にもたいへんですねと声をかけたのでした。
彼は、今年の春に花園大学を出たばかりで、円覚寺の僧堂では最年少であります。
そんな重い荷を背負いながら、修行するというご苦労を思います。
徳川家康の遺訓を思い起こしました。
「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
勝つことを知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」
というものです。
『論語』には、
「任重くして道遠し」との言葉もございます。
重荷を背負って修行に励む青年僧を応援したいものであります。
私などは、何のご縁のないところに産まれて、好きなことをやっているうちに今日に到りましたので、重荷を背負うなどいう苦労は感じたことがありません。
好きなことをしているうちに、荷物がくっついてきた感じなのであります。
世襲の良し悪しは分かりませんが、そのようなご縁の中で精いっぱい努力することには、心から敬意を表しますし、応援してあげたいものであります。
横田南嶺