執着しない生き方
仏教では、よい意味では説かれません。
苦しみを生み出すもととして説かれます。
実に執着は、ありすぎると人を苦しめます。
しかし、全く執着無しでは生きることも難しいものであります。
「放下著」という禅語があります。
「放下」という言葉は、入矢義高先生の『禅語辞典』によると、「単に「置く」「下ろす」ということ。ほうり投げることではない。」と解説されています。
趙州和尚と僧との問答がございます。
中国の唐代に、厳陽尊者という僧が趙州和尚に、「何もかも捨て去って一物も持っておりませんが、そんなときはどうしたらいいのでしょうか)と尋ねました。
趙州は、「放下著」と答えました。
平田精耕老師は、『禅語事典』で、
「「放下」とは手放す、投げ捨てるという意味で、「著」は命令の意味を表わす助辞です。つまり「投げ捨ててしまえ」ということです。」と解説されています。
厳陽尊者はそれでも納得せず、すでに何も持っていないので、捨て去れといわれても、捨てるものがないではないですかと反問しました。
すると、趙州は、「それなら、かついで行け」と答えたのでした。
平田老師は、「これは、何も持っていないということがそれほど大切ならば、その何も持っていないということを背負って行けと、一物も持っていない(無所有)ということに執着する心を捨て去ってしまえといっているわけです。
つまり、放下著とは、相対的な観念を捨て去るということをいっているわけですが、それは同時に、その捨て去るという観念をも捨て切ってしまうことを意味しています。」と解説されています。
放下著とは、正しくは下ろすという意味なのですが、長らく捨てしまう、投げ捨てることの意で受け止められてきました。
執着を離れよという意味であります。
釈宗演老師の『観音経講話』に興味深い話が載っていました。
蓮月尼の話であります。
蓮月尼は、江戸時代後期の尼僧であり、歌人でもありました。
とある京都の大きなお店の老母が、蓮月尼の信者でありました。
蓮月尼を自分の宅に招待して供養したり、また読経してもらったり、また説教してもらったりしていました。
また時には自身が蓮月尼の庵に行っては、善い話を聴かせてもらったりしていたのでした。
ところが不思議なことに、いつ行ってみても、行くたびごとにその内仏に安置してある仏様が変わっているというのです。
ある時には阿弥陀様を祀っていることもあればお釈迦様を祀っていることもあるのです。
阿弥陀さまやお釈迦さまのお像なら本尊らしくも見えますが、時によると伏見あたりでこしらえた伏見人形、八瀬大原のあの大原女の人形、京都では堀河人形とも言うそうですが、そんな人形を祀っているのでした。
老母が本尊に手を合わせると、そういうふうに始終本尊が変わっているので、蓮月尼が貯えが無いので、立派な本尊が買えないので、こういうことになったのだろうと思いました。
それならば自分が一つ仏像を買ってあげようと思い立ち、金箔付きの本尊を買って、それを携えて蓮月尼の庵に行きました。
「実は貴女の庵の本尊を拝んでみると、お尋ねするたびにいつも本尊が変わっています。伏見人形や堀河人形までが祀られています。これは私の心尽くしで持ってきたところの阿弥陀如来であります。
これを進上しますからどうぞこれを本尊と祀って拝んでください」と差し出したのでした。
蓮月尼も喜ぶだろうと思ったのですが、喜ぶどころか、そのご本尊阿弥陀如来像を丁重に返されたのでした。
遠慮しているのかと思って、どうぞご遠慮せずにと申し上げるのですが、受け取りません。
蓮月尼には考えがあったのです。
「実は私がこういう美しい仏をもらってみると、ひょっとすると、仏のために今までの私の安心が動くかもしれない。
仏が美しいというと、ついそれに囚われてしまう。
私の安心は何も物にひっ付かないところにあるので、心のなかに常に阿弥陀様があって心のなかに光を放っているから、台所に行ってご飯を喰べる時でも、浄水に行って不浄をなす時でも、そこに阿弥陀様に私の信仰が通じる――
どこでも阿弥陀様に通じる――それであるから私は本尊を得ようと思えば得られもしようが、常に仏の心を得ようとするにはその仏の姿に着しては済まないと思っている。
しかしながら私とて人間である。
何か見よりがなければいけない。
そこで仏の人形を買ったりするが、それに執着が起こると子供にやって、今度は伏見人形を買ったり堀河人形を買ったりする。
そのなかには山姥もあれば太夫もあり花魁もある。
仏もあれば布袋もある。ところが日を経るとやはりだんだん執着が起こるからして、次から次へそこらあたりの子供にやってしまう。
そうして私は信仰を養っているのであるから、せっかくの美しい立派な仏だけれども、そういう私の安心だから、これはお返しいたします」といったというのであります。
立派な仏像をいただくと、それに執着してしまうというのであります。
釈宗演老師は、「蓮月の安心は面白い。」と言いながらも、「わざわざそういう真似をしなくてもよい。」と書かれています。
そして「立派な本尊を安置して礼拝供養するは結構であるが、迷いに近づかないようにしなければならない。況んや仏の姿に執着しては済まない。」と説かれています。
何ものにもとらわれないようにと、仏像まで次々と人にあげて、こだわらないようにしていたというのは恐れ入りました。
こういう方のことを思うと、今の私などは寺に住しながらもいろんなことに執着してしまっています。
第一ご本尊は国の重要文化財でありますから、変えるわけにはいきませんし、補修もしなければなりません。
僧堂の修行僧達にも、釈宗演老師と同じく、蓮月尼の心境はすばらしいものですが、まねをしないようにと伝えました。
寺にあるものを、次々と人にあげていたら、困りものであります。
執着しないこと、こだわらないことは難しいものです。
そういう蓮月尼の逸話に学びながらも、蓮月尼も、執着しないことに執着しているのではと思ったりしました。
こだわらないことが、こだわりになるとまた困りものです。
執着しない生き方、それにとらわれるのも考えものなのです。
横田南嶺