聴くことの大切さ
まず「この度のご縁は今生初めてのご縁と思うべし」。
同じお説法や法話を聞いていたとしても、今日お話を聞くことは、生まれて初めて聞かせていただくと思うことです。
二つ目は「この度のご縁は私一人の為と思うべし」。
大勢の中の一人というのではなく、私一人のために法話をしてくださっていると思いなさいというのです。
最後が「この度のご縁は今生最後のご縁と思うべし」です。
これが人生で最後であるという気持ちで臨みなさいということです。
次があるという心持ちではいつまでも埒があきません。
毎朝、管長日記としてラジオで短いお話をさせていただいています。
先日は、「怖い慢心」という題で話をしましたところ、何人かの方から御礼のお手紙を頂戴しました。
御礼を下さった方は、一様にこの慢心の話を「我が身のこと」として受け止めてくれていたのであります。
「まさしく自分は慢心をしていた」と思い当たったというのであります。
ある方は、職場で注意されて、「自分は悪くないのに」という気持ちがあって、うつうつして夜あまり眠れないまま、朝を迎えました。
朝になって、毎朝聞く習慣にしている管長日記のラジオを聴かれたそうです。
「怖い慢心」の話を聴いて、目が覚めるばかりでなく、心の目も同時に覚めたというのであります。
自分では完璧に仕事をこなしていたという思いを持っていたことが、まさに「慢心」そのものであったと気がついたのでした。
そのあとの呼吸瞑想を終えると、心のよどみが消えてゆくのが分かったと手紙には書かれていました。
「素直に気持ちになって初心に戻って職場に向かおう」と思ったというのでした。
有り難いお手紙でありました。
親鸞上人は、『歎異抄』の中で、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」
と述懐されたのは、よく知られています。
阿弥陀さまが五劫もの長い間思惟しておこされた本願を、よくよく考えてみると、ひとえに私親鸞一人のためであったという思いであります。
他人事と思って受け止めていては深い領解にはならないのであります。
ちょうど、『盤珪禅師語録』を講義していて、同じような話を学びました。
盤珪禅師が、大洲の如法寺に行かれた時のことです。
そこには女性の方も大勢お説法を聴きに来ていたそうで、女性のためのお堂もあったと書かれています。
ある時に、大洲から二里ほど離れたところから来た女性がいました。
その方は、ご縁があって嫁に行って、子どもも一人できたのですが、夫婦の仲が悪くて喧嘩が絶えなかったというのです。
とうとう大喧嘩になってしまい、お嫁さんは、子どもを夫に渡して、家を出て親元に帰ろうとしました。
夫は、嫁に対して親元に帰るのならば、この子を川に流すと言いました。
夫は別れたくないのでしょう。
しかし嫁の方は、子どもはあなたに渡したのですから、どうなさろうとかまいませんと答えます。
更に嫁入りの時に持ってきた着物や道具もあげないと言っても、そんなものは惜しくはないと言って出てしまいました。
大洲にさしかかって、大勢の人たちが、盤珪禅師のお説法を聴きに参詣しているのを目にしました。
そこでその女性も、ふと説法を聴いてみようという心が起こって親元には帰らずに、盤珪禅師のお説法を聴かれたのでした。
説法が終わって、皆が帰って行きます。
この女性も帰る道すがら、親の隣の人に会いました。
この人がどうして来られたのかと聞くので、
「実は今朝夫婦喧嘩をして家を出て親元に帰ろうと思ってここまで来たのですが、大勢の方がご説法の場所に行かれるのを見て、ちょうどいい所に来たと思って参詣したところです。」と話します。
そのあとに、
「今日のご説法は、全部私のことでございました。
さてさて恥ずかしいことでした。
今日私が夫の家を出ましたのは、すべて自分の心のありようが悪いからでした。
夫は私を親の方へ戻したくはないので、姑と一緒に引きとどめられましたが、私はつまらない事に腹を立て、姑や夫にも腹を立てさせてしまいました。
今日のお説法で我が身の悪いことを十分に納得いたしましたので、親の方へは参らずに、これから嫁ぎ先へ戻って自分の間違いをお詫びして、お二人に頭を下げ、この有難いご説法を話して聞かせてあげたいと思います」
というのでありました。
そこで一緒に参詣していた人たちもその話を聞いて、さてさてこのご婦人は感心な方だ、今日一回の説法を聴聞して自分の間違いを悔やみ、これほどの心にまでなったというのは滅多にないことだと感心しました。
盤珪禅師が、大洲のさる家に呼ばれて参りましたところ、今日のご説法に有難い事が起こりましたと、この女性の話を聴かせてもらったというのです。
この女性は、自分の考え違いで姑と夫のお二人の心にそむいて家出をし、親の所へ帰ろうと思って大洲へ参り、盤珪禅師の話を聴いてこれが、よい仏縁に恵まれたのでした。
その日に聴いたご説法は一つも余すところなく、みな自分の身の上の事であったと受け止めたのでした。
そこで夫と姑に対して、
「私の心が悪いことで、お二人にも乱れた心を起こさせました。
これから私をどのようにもなさってかまいませんので、どうか怒りをおさめてください。」とお詫びしました。
夫と姑もその言葉を聞いて、どうして恨みなどしようかといって、戻ったことに満足して、全部うまくいったというのであります。
それからと夫にも尽くし、姑も大切にして、盤珪禅師に聴いた有難い説法を折々二人に話して聞かせ、ついに二人ともに勧めて、盤珪禅師のお説法を聴きに三人で連れ立って、何度も来たそうなのです。
盤珪禅師も、「何のわきまえもない者でも、一回の説法によって、争いや怒りのないようになりましたことは、まったく感心な心根ではございませんか」と語っておられます。
これもひとえに、本日のお説法はすべて私のことであったと受け止めたからなのです。
恐らく盤珪禅師のお説法はいつもと同じように、銘々親から産みつけてもらったのは、仏心ひとつであること、それが我が身かわいさのあまりに、外のものを見たり聞いたりして、気に入ったものは益々欲しがり、気に入らぬと腹を立てたり、憎しみの心を起こしたりして尊い仏心を地獄や餓鬼、修羅の心に自分で変えてしまっているのだということをくり返し話されたのだと察します。
同じ話で、どこでも何度も話されているのでしょうが、聴く側が他人事にように聴いていては埒があきません。
これも時節が熟したというのでありましょうか、この方は、すべて自分のことだと受け止めたのです。
そうして我見が取れてしまって、自然と素直に頭が下がったのでした。
素直に頭の下がる者を誰も咎めようとしないものです。
坐禅して無になる修行も尊いものでありますが、盤珪禅師のように平易に話をされるのを聴いて、我見が無くなってものごとがうまくおさまるということもあるのであります。
聴くことも大切です。
そしてどういう気持ちで聴くかが大切なのです。
横田南嶺