怨みを捨ててこそ
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。(三番)」
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。(四番)
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。(五番)
特にこの第五番の言葉は、スリランカで大統領を勤めたジャヤワルダナ氏の逸話と共によく知られています。
ジャヤワルダナ氏が、まだ当時のセイロンの大蔵大臣だった1951年、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席したのでした。
この会議では、第2次世界大戦後の領土問題や日本への賠償請求などについて話し合われました。
多くの国々が、日本へ厳しい意見を述べるなかで、ジャヤワルダナ氏の演説によって、日本の印象はがらりと変わったといいます。
セイロンは、日本に対する賠償請求権を放棄したのでした。
セイロンは、日本の侵略を受けなかったのですが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、それにセイロンが連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時、セイロンの主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格があったのです。
そして、その時に「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈悲によって止む」というブッダの言葉を引用されたのでした。
言葉でいうことは易く、実際に、怨みを捨てることは容易ではありません。
日本講演新聞の八月十六日号の社説に、水谷謹人さんが、致知出版社から刊行された『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』という本を紹介されていました。
致知出版社によれば、「本書は、創刊から43年の歴史をもつ会員制月刊誌『致知』の1万本以上の記事、および致知出版社から刊行している書籍の中から、編集者たちがもっとも心に刺さったエピソードを365篇収録し、1日1話形式でまとめました。」という本です。
出版が不況の折から、なんと発売4ヵ月半で25万部も出たのでした。
『月刊致知』に掲載された記事の一部を抜粋したもので、1月1日から始まって12月31日まで、1日1ページ、365人の「心熱くなる話」が掲載されているのです。
私も十月二十八日のところに掲載してもらっています。
日本講演新聞の社説では、
この本の「7月31日」のページに載ってる、愛媛県西条市で「のらねこ学かん」という、知的障碍(しょうがい)者のための通所施設を運営している塩見志満子さん(85)の話が載っています。
この話は、私も読んで感動したものです。
日本講演新聞にも紹介されていて、改めて読み直しました。
社説の文章から紹介します。
「志満子さんは38歳の時、当時小学2年生の長男を白血病で亡くしている。
だから、4人の兄弟姉妹のうち末っ子の二男が小学3年生に上がった時は「もう大丈夫。お兄ちゃんのように死んだりしない」と胸をなでおろした。
しかし、その年の夏、プールの時間に起こった事故でその二男が亡くなった。長男の死から8年後のことだった。
志満子さんが勤務先の高校から駆け付けた時には、二男はもう息をしていなかった。子どもたちの話によると、誰かに背中を押され、そのはずみでプールサイドのコンクリートに頭をぶつけ、そのまま沈んでしまったという。
「犯人は誰だ。学校も友だちも絶対に許さない」―志満子さんの心は怒りに満ち溢れた。しばらくして同じ高校教師の夫が大泣きしながら駆け付けた。
現場は新聞記者やテレビカメラで騒然としていた。妻の心境を察したのだろうか、夫は志満子さんを近くの倉庫の裏に連れていってとんでもないことを言い出した。
「これはつらく、悲しいことや。だけど、犯人を見つけたら、その子の両親はこれから先ずっと自分の子どもは友だちを殺してしまった、という罪を背負って生きていかないかん。わしら二人が我慢しようや。うちの子は心臓まひで死んだことにしよう。校医の先生に心臓まひで死んだという診断書を書いてもらおう。そうしようや。そうしようや」
「この人は何を言っているんだろう」と志満子さんは耳を疑ったが、何度も何度も「そうしよう」と言うので、仕方なく夫の言うことを聞いた。
40年くらい前の話である。毎年、命日の7月2日になると、二男の墓前に花がなかった年は一度もないという。誰かが花を手向け、タワシで暮石を磨いている。
「あの時、私たちが学校を訴えていたら、お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった。そういう人が生活する町にはできなかった」と文章は志満子さんのそんな言葉で結ばれていた。」
という話なのです。
壮絶な話であります。
いくら怨みを捨ててこそ怨みはやむと分かっていても、とっさにそのような判断ができるかというと、並大抵のことではありません。
菊池寛の小説『怨讐の彼方に』にも怨みを捨てる生き方が説かれています。
小説の主人公市九郎は、中川三郎兵衛という旗本に仕えていました。
主人の妾と恋に落ちてしまい、そのことをを知った主人に斬られそうになるのですが、市九郎は応戦して、逆に主人を殺してしまいました。
逃げ出した市九郎は、盗賊や追い剥ぎなどをして生き延びますが、人殺しを悔やんで出家しました。
僧になった市九郎は修行を積んでから全国を行脚し、豊前の「鎖渡し」という山越えの難所で人が毎年死ぬことを知りました。
懺悔として地元の人たちを救おうと、断崖に杭を穿って洞門を掘り進めました。
最初は何を馬鹿なことを村の人たちは笑っていたのですが、段々と協力するようになって、二十一年間掘り続けて遂に完成が見えてきました。
そんななか、殺してしまった主人の息子・実之助が父の敵討ちにと、市九郎の元にやってくるのでした。
はじめは殺気立っていた実之助だが、半生を贖罪に生きてきた市九郎を見て、殺す気が失せて、洞門ができるまで待とうと思い、そして共に掘り出したのでした。
二人してついに洞門を完成させることができました。
「こころおきなく、私を斬りなさい」と言われても、
実之助は「心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋(しな)びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。
敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。
二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。」
という話であります。
怨みを捨てるということは、なかなか容易ではありませんが、怨みを捨てる生き方もあるのだということを心に留めておきたいものであります。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。(五番)
横田南嶺