ふわふわと軽やかに
以前にも紹介したことがあります。
私が一番印象に残っているのが、阿さんの子どもが桜の花びらで遊んでいる光景であります。
『不要不急』の阿さんの文章から引用させていただきます。
「また桜が満開の時のことであるが、何を思ったのか自転車を引っ張り出してきて、そのカゴに桜の花びらをかき集めて入れはじめたのだ。
勿論、カゴは編み目が粗いので花びらは下からどんどん散っていく。
そのうち周りで遊んでいた子どもたちも仲間に加わり、こぼれ落ちた花びらが時おり風で飛ばされて舞い上がると、キャッと笑って楽しんでいるのだ。」
というところであります。
昨年の春のことであります。
阿さんの円融寺には、何度か訪ねたことがあります。
桜の季節に訪ねたことはないのですが、桜の木がたくさんありますので、花が咲く頃には綺麗だろうなと思っていました。
満開の桜の花が、ハラハラと散るなかで、子どもたちが、無心に花びらを集めて、こぼれ落ちることなど全く気にすることもなく、遊んでいる様子は、想像するだけで、美しく、心豊かな思いになります。
阿さんは、
「そんな子どもたちの姿を眺めていると、「雪を担うて井を填む」という禅語が脳裏に浮かぶ。」
と書かれています。
どういうことかというと、
「雪を担いで井戸に投げ入れ埋めようとすることだが、雪は当然溶けてしまう。それでもひたすら繰り返す中に禅の境地があるという。」というのです。
そこを更に解説されて、
「大人は何をするにも目的や意味を必要とし、何のために穴を掘るのか、花びらを集めて何をしようかと考える。
今やっていることは何かの手段にすぎず、目的に早く到達するためにはどうしたら効率よくできるか、どんな方法がいいかと策を講じる。
もちろん遊びやゲームの中にも一定の目的や方法はあるけれども、子どもは何事にもただ今していることに夢中になっている。
その姿は真剣そのものだ。真剣だから精一杯の力を込められるし、何よりも楽しいのだ。」
というのであります。
花びらを、いくら入れてもこぼれるかごに、無心で入れようとする様子と、禅語の「雪を担うて井を填む」というのとを掛け合わせているのです。
「雪を担うて井を填む」という禅語は、私たちの修行の究極の姿として使われます。
無駄と分かっていて、あえてその無駄を営々と続けてゆくということであります。
しかし、この言葉からは、どこか、無駄だと分かりながらも敢えて、続けるという、苦労が見受けられます。
そんな行いを、あたかも子どもが花びらをカゴに入れようとするように無心に楽しくできればいいのだと思いました。
私は、この子どもが花びらを集めている様子を思うと、「摘楊花」という禅語が思い浮かびました。
この「摘楊花」という禅語は、実に不思議な禅語であります。
『諸録俗語解』という江戸期に書かれた禅語の辞典がございます。
手書きの写本が伝わっていたのですが、近年禅文化研究所から刊行されています。
そこには「摘楊花」は「離別の歌曲の名。おさらば、おさらばと訳す」と書かれています。
「楊花」はヤナギの綿のことでありますが、この「おさらば」という訳は、「折楊柳」という言葉と混同されてしまったものです。
「折楊柳」はヤナギの条(えだ)を折る意です。
古い中国の習俗で,親戚知友が遠方に旅立つときには、城外まで見送り、水辺の柳の枝を折り取り環(わ)の形に結んで贈ったということがもとになっています。
〈環〉は〈還〉で,旅人の無事帰還を祈る意味とされています。
『諸録俗語解』の説明は、「摘楊花」と「折楊柳」を混同してしまったものです。
江戸期の禅僧の漢詩には、この解釈によって、「摘楊花」を別れの言葉として使っているものがあります。
しかし、元来の意味は異なります。
入矢義高先生の『禅語辞典』には、
「空中を舞い飛ぶ柳絮を取ろうと追いかける。もとは子供の遊びで、こう囃したてながら柳絮を追って走り廻った。それを図柄にした明代の染付がある。」
と解説されています
「摘楊花」は、歌か囃しコトバの一部です。
明代の焼き物の図録に一枚のお皿には、いわゆる唐子ふうの中国の子供が柳絮を追いかけながら楽しそうに走っている絵が描かれて、かたわらに「摘楊花 摘楊花」と書かれているのだそうです。
このことは駒澤大学の小川隆先生にご教示いただきました。
小川先生は「風に吹かれてふわふわと飛ぶヤナギの綿を楽しむ歌ないし囃しコトバということから、何処にも根を下ろさず、何者にも依拠しない、いわば無基底のありようを軽やかに明るく歌ったもの」と説明してくれました。
『趙州録』にもとがあるのですが、「仏法」なるものを大仰に実体視されていることに対して趙州和尚が言った言葉です。
「ふわふわと軽やかに舞う柳絮は、実体化され神聖視された「仏法」なるものに対するアンチテーゼとなっている」というのであります。
この「摘楊花」の言葉の方が、より明るくて楽しそうで、軽やかで、子どもが無心に花びらで遊ぶ様子と近いように思うのであります。
いろんなことがあるのがお互いの人生でありますが、あまり難しく考えずに、柳の綿のようにふわふわと軽やかに、それを追いかける子どものように明るく楽しく柔軟に対応してゆきたいものであります。
横田南嶺