勝敗を捨てる生き方
そこには、「資本主義の先へ」「五輪ただ中に見つめるメガイベントの陰」 「成長へひた走る暴力性」などというタイトルが付けられていました。
更に「『再開発のため』排除される弱者」という言葉も見られます。
読んでみると齋藤さんの、
「ついに東京オリンピックが開幕した。
高校までサッカーをしていたし、スポーツ観戦は嫌いじゃない。
けれども、新型コロナウイルスの感染拡大、医療現場への負担増、開会式担当者らのいじめ加害や人権軽視による辞任・解任劇、中止になった知り合いの音楽イベント――、こうしたことを思うと素直に開会式を楽しむことができなかった。」
という言葉から始まっています。
スポーツに打ちこむことは素晴らしいことです。
特にオリンピックのような大会になると、そのために何年も何年も厳しく苦しいトレーニングを経て、勝利を得るのは素晴らしいことです。
多くの人が感動します。勇気をいただくこともできます。
しかし、そのように素直には喜べないという心情もまたあるのでしょう。
齋藤さんは、東京都新宿区の国立競技場を建て替えるにあたって立ち退きを余儀なくされた方のことを取材されています。
「『再開発のため』排除される弱者」というのはそのことです。
大きなことを成し遂げるために、犠牲はやむを得ないという考えもあろうかと思います。
しかしながら、このように弱い立場の方の言葉に耳を傾けることも大切だと思って、記事を拝読したのでした。
障害をもつ九十歳にも近い方が、今までよりも狭いところに引っ越しをさせられることになったという話でした。
しかも都からの補償金がごくわずかだったのでした。
立ち退きを余儀なくされた方に、五輪の開催をどう思うかと尋ねたところ、「弱い人間だから、と自分に言い聞かせている」というのでした。
齋藤さんは、「もっと怒りの言葉が出てくることを予想していた」と言います。
その方を「そこまで打ちのめしたオリンピックを恨んだ」と書かれていますが多くの人は、そのようにして現実を受け入れて暮らしているのでしょう。
それにしても「オリンピックは勝負の世界。負けたものはダメ、クズ。ホームレス、障がい者、老人、弱いものは追い出されるのさ」と語られた言葉は悲しいものであります。
お釈迦様の話のなかで、私が少年の頃から心惹かれたものがございます。
中村元先生の『人間釈尊の探求』から引用させていただきます。
「シッダッタが七歳のころであったという。
冬が去り、春になり、釈迦国では、耕作はじめの祭式がとりおこなわれた。少年も父王や大臣たちと祭式に出席し、農夫たちが鋤で田を耕すのを見物していた。
うららかな日ざしの中で、動植物は生命力に満ち満ち、吹き来る春の風は土の香を運び、どこから見てものどかな光景であった。
その時、農夫の掘り起こした土の中から小さな虫が出て来た。
すると、小鳥が飛んで来て、その虫をくわえて飛び去った。その小鳥は、さらに、猛禽にねらわれた。
シッダッタ少年はこの弱肉強食の情景を目撃し、深く傷つき、「憐れにも生物たちは互いに喰いあっている」とつぶやいて、その場を離れた。
そしてとある樹の下に坐り瞑想にふけった。
父王たちは少年を探しているうちに、坐禅を組んでいる少年を見つけた。不思議なことに、太陽が移動しても、樹の陰は動かず、いつまでも少年を直射日光から保護していた。この奇跡を見た人びとは大いに驚き、父王も思わず自分の子を伏しおがんだ、と伝えられている。」
という話です。
こんな心を持った方が説かれた教えを学びたいと思ったのでありました。
学校でも勝ち負けの世界でありました。
受験戦争などいう言葉が作り出されて、競争に駆り立てられるようになっていました。
とある予備校の「日々是決戦」などという言葉も耳にしていました。
私は、そんな世界にはなじめずに、お寺に通っては坐禅をしていたのでした。
勝ち負けの世界から離れて生きてきましたが、今もどうにかこうしてこの世の片隅で暮らしています。
勝ち負けの世界で打ち勝った仲間の中には、すでに鬼籍に入った者もいます。
あの作られた「戦争」のような世界は何だったのだろうかと、今は静かに振り返ります。
勝者はほんとうにいたのだろうかと。
誰に煽られていたのであろうかと。
改めて仏陀の言葉を思います。
『法句経』(201)
勝つ者 怨みを招かん 他に敗れたる者 くるしみて臥す されど 勝敗の二つを棄てて こころ安静なる人は 起居(おきふし)ともに さいわいなり(友松円諦訳)
こんな言葉に感動して、仏典を学び坐禅をしていたのでした。
『法句経』(3)、
「彼 われをののしり 彼 われをうちたり 彼 われをうちまかし 彼 われをうばえり かくのごとく 執する人々に うらみは ついに やむことなし(友松円諦訳)」
『法句経』(4)、
「彼 われをののしり 彼、われをうちたり 彼 われをうちまかし 彼 われをうばえり かくのごとく 執せざる人々こそ ついにうらみの 止息(やすらい)を見ん(友松円諦訳)
『法句経』(5)、
まこと 怨みごころは いかなるすべをもつとも 怨みを懐くその日まで ひとの世にはやみがたし うらみなさによりてのみ うらみはついに消ゆるべし こは易らざる真諦(まこと)なり(友松円諦 訳)
齋藤さんは、「祭り騒ぎに便乗して納税者に負担を押し付けながら、政府の大型支出により特定の企業が潤う」ことを懸念されています。
コロナ禍によって、齋藤さんの指摘する「成長へひた走る暴力性」に歯止めがかかればいいのですが、どうなることでありましょうか。
私は、やはり仏陀の心を尊崇し、大切にしたいのであります。
横田南嶺