正受庵を訪ねて
昨年は残念ながら、中止のやむなきに到りました。
今年は、八月七日に行われたのでした。
おりから、また新型コロナウイルス感染が広がって、どうなるかと心配していたのですが、無事開催できたのでした。
私もおかげではじめて飯山市の正受庵を訪ねることができました。
私たち日本の臨済宗を学ぶ者にとって、正受庵は特別なお寺なのであります。
今日私ども臨済宗は、妙心寺派をはじめ、南禅寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、大徳寺派などと十四もの本山があって、それぞれの派に分かれています。
しかし、それぞれの開山さまの教えは、残念ながら途絶えてしまって、只今はどの本山であろうと、みな一様に白隠禅師の教えを学んでいるのであります。
十四の本山といっても、みな白隠禅師の児孫なのです。
正受老人はその白隠禅師のお師匠さまですので、今日日本の臨済禅を学ぶ者は、とりもなおさず、正受老人白隠禅師の児孫であると言えるのであります。
阿部芳春先生が昭和六年に、信濃毎日新聞から発行された『正受老人』という貴重な書物がございます。
今でも正受老人について学ぶ時には貴重な資料であります。
その本の巻頭に建仁寺の竹田黙雷老師が、「一縷、千鈞を繋ぐ」と揮毫されています。
一縷というのは、「一本の細い糸すじ。絶えようとするさま。わずかにつながっているさま」を言います。
「一縷の望み」という言い方をします。「一縷、千鈞を繋ぐ」という言葉が、江戸時代以降今日に到るの臨済の禅のあり方をよく言い表しています。
臨済の禅は、鎌倉時代に中国から日本に伝わりました。
一番最初が、栄西禅師が中国に渡って、禅を学んで伝えてくれたのでした。
それから東福寺の開山の圓爾弁圓聖一国師が伝えました。
それから建長寺の蘭渓道隆禅師や円覚寺の無学祖元禅師などという中国のお坊さんが日本に見えて禅を伝えました。
鎌倉の武士や、或いはご皇室の方などに禅は学ばれてきました。
ご皇室や、幕府の将軍をはじめ武士の方に支持されてきましたので、手厚く保護されてきたと言えます。
しかし、この手厚く保護されることが長く続くと、残念ながら堕落するという一面もございます。
いろんな事情が相俟ってのことでありますが、私たちの臨済の禅は、江戸期には一時衰退していたということができます。
「一縷」という言葉が、絶えようとしているさま、わずかにつながっているさまを表しているのです。
江戸期には一時、臨済の禅はそのままでは、まさに絶えようかとしていると状況にあったと言えましょう。
そんな中をわずかにつなげてくださったのが、この正受老人と白隠禅師の師弟でありました。
白隠禅師は、この正受老人のところへ、二十四歳の時に参禅されています。
正受老人は、若き白隠禅師を徹底して鍛えられました。
禅問答で難しい問題を与えて、白隠禅師が何か答えるたびに「あなぐらぜんぼうめ」と罵りました。
ある時には正受老人が檐の端に坐って涼んでいるところへ、白隠禅師が禅問答に挑むと「妄想情解」といって罵り、白隠禅師をつかまえて、堂下に突き落としました。
ちょうど長雨のあとでその泥水になかにころんだのでした。
息も絶えたのですが、しばらくして息を吹き返して礼拝すると正受老人はまた「あなぐらぜんぼうめ」と罵ったのでした。
このような厳しい修行を重ねたのでした。
そしてようやく白隠禅師が飯山の町を托鉢して悟るところがあり、正受老人は白隠禅師を一見して、その心境を見抜いてくれました。
それまでは罵られるばかりだったのが、団扇を手にして背中を撫でてくれたのでした。
これだけみるとひどい仕打ちにように思われます。
季刊誌『禅文化』255号は、正受老人の特集号ですが、飯山市の教育委員会教育長であった長瀬哲先生は、阿部次郎の『三太郎日記』の言葉を引用されて、このあたりの消息を述べています。
「初め白隠が恵端和尚をこの庵に訪うたとき、恵端は白隠を崖から蹴落としたさうだ。
白隠はそれにも懲りずに恵端に師事したさうだ。
さうして或日白隠が一つの悟りを得てその座禅の座から(彼は戸外の石上に坐して工夫を積んだといふことである)帰つて来る時に、恵端は縁の端に出て遠くから手招きをしながら白隠を歓迎したさうだ。
自分はその話をきいて白隠と恵端との間が羨しくてならなかつた。
自分にも、自分を崖から蹴落として呉れる師匠、縁側から自分を手招きして呉れる師匠がゐたら、どんなに幸福なことであらう。
師弟の関係を以つて奴隷と暴君との関係と見る者は浅薄である。
師弟とは与へられるだけを与へ、受けられるだけを受けむとする、二個の独立せる、而も相互に深く信頼せる霊魂の関係である。」
というのです。
白隠蹴落とし坂というのが、今も庵に残っています。
正受老人は、江戸の至道無難禅師について修行された後に、三十五歳でこの庵に入り、八十歳でお亡くなりになるまで、ずっとこの正受庵を離れずに修行三昧、正念工夫でありました。
飯山の藩主からも寺領と一寺の建立をと言われたものの、正受老人はそれを断って、飯山城内にあった実に趣のある水石と栂の木を頂かれたのでした。
水石は、写真で見ていて想像していたよりも大きく、実に味わい深いものでありました。
正受老人の亡き後は、幾多の変遷を経て、大地震に遭っても守られてきました
明治になって荒廃していたところを山岡鉄舟、高橋泥舟らの尽力で再興されました。
今に到るまでご当地で大切に守られています。
かねてから、飯山には仏壇通りというのがあると聞いていました。
正受老人が地元の方に、雪深い冬にも仕事ができるようにと、仏壇づくりを推奨されたのが起こりだと聞いています。
今も立派な仏壇屋がずらりと軒を連ねていて壮観でありました。
今は国の伝統工芸品となっているとのことです。
信心深い町だと感じました。
正受庵は日本臨済禅の聖地であります。
この庵にゆけば、禅僧の原点に立ち返ることができると感じました。
有り難い講演会でありました。
横田南嶺