流した涙の量
それは「与えられないものは取らない。生きものを害さぬように心掛けている。怠惰から遠ざかっている。嘘をつかない。乱暴な口をきかない。陰口を言わない。くだらぬおしゃべりをしない。欲望の享楽にふけらない。物事を明らかに観察できる目がある。智慧がある。煩悩の汚れがない。その行動は清らかである。『経集』(『釈迦一日一言』)」というのです。
お釈迦様の人となりをよく表しています。
いつも物静かで、穏やかで、冷静な智慧を持った方であります。
お釈迦様のお弟子には舎利弗と目連という方がいました。
この二人は、少年時代からとても仲よかったのでした。
二人して、六師外道と呼ばれた思想家の一人サンジャヤに師事したのでした。
サンジャヤの思想をすべて学び尽くしたものの、心の平安を得ることができなかったのでした。
ある時舎利弗は、一人静かに歩く、爽やかな修行僧を目にしました。
威儀厳かな姿に心打たれた舎利弗は、声をかけて、誰を師としているのか、そしてその師はどんな教えを説かれているか尋ねました。
その修行僧は阿説示と言いました。
そしてお釈迦様を師としていることと、お釈迦様は諸法はすべて因縁によって生じていることを説いていると伝えました。
舎利弗は、その一言で気がつきました。
「人々はみな「我」があるゆえに、輪廻転生のやむことがない、「我」こそ滅すべきものである。滅すれば心の闇は開かれ、光明おのずから内に充つるであろう。われが今日まで学びきたったものは、すべてこれ邪道そのものであった」と述懐しています。
そして、舎利弗は目連と共にお釈迦様のもとに行きました。
サンジャヤの弟子二百五十人と共に二人はお釈迦様のお弟子になったのでした。
二人は、お釈迦様から弟子として最も信頼されていました。
十大弟子のなかでも、舎利弗は智慧第一、目連は神通第一と称されました。
舎利弗は、教団の後継者としても目されていたのでした。
目連は、日本でも毎年夏になると行われるお盆の供養を始めた方でもあります。
目連が亡き母の供養をしようとしたことがお盆の起こりでありました。
親孝行であったことがしのばれます。
しかしながらこの二人は、お釈迦様より早くお亡くなりになっています。
目連は、仏教教団を快く思わない外道の一派によって殺害されてしまいます。
浮浪者たちに金品を与えて、目連を殺害させたのでした。
それぞれに石や棒をもって目連を散々に乱打しました。
目連の身体は、皮は破れ、肉は裂け、骨も砕かれて、なんと一塊の肉となったほどでした。
これを見た舎利弗は、「神通第一といわれるほどのそなたが、なぜこのような姿になったのか」と問います。
目連は、「これは前世における我が悪業の報いである。これより涅槃に赴くであろう」と答えました。
その言葉を聞いた舎利弗は、「私たち二人は一緒に道を求めて出家し、一緒に仏弟子となったのであるから一緒に入滅しよう」と言って、舎利弗は、故郷に帰り、母の為に仏法を説いて、お亡くなりになったのでした。
舎利弗は、もともと身体が弱く病気であったとも言われています。
舎利弗の遺骨がお釈迦様のもとに届けられました。
お釈迦様は、その遺骨を手の上に載せよと弟子に命じられて、右の手に受けると高々とかかげられて、
「比丘たちよ、この遺骨を見よ、無常の法はいかんともしがたし」
と仰せになっています。
そして更に「数日前までこの地において法を説き、衆を導いた大智慧の舎利弗の遺骨がこれである。
彼の智慧はまことに深く広大であり、比ぶべきものはない。
彼は小欲にして争いを好まず、常に悪を嫌って善につき、閑静を好んで禅定を修め、正法を護持する一大尊者であった。
比丘たちよ、今一度、この賢聖なるわが児の遺骨をとくと見られよ」
と仰ったのでした。
舎利弗と目連という二人の優れた弟子を亡くした晩年のお釈迦様のお気持ちはいかばかりであったろうかと察するに余りあります。
お釈迦様は当時のインドにあって、八十歳という長命でしたが、そのために自分よりも早く弟子を失うという悲しみを体験されています。
また自分が生まれ育った釈迦族も滅亡してしまうという悲劇も経験されています。
こんな言葉が残されています。
お釈迦様はあるとき、弟子たちに語りました。
「比丘たちよ、なんじらが長い流転輪廻の生存の中で、愛する者との別離に際して流した涙の量と、四つの大海の水と、どちらが多いであろうか」と。
比丘は答えました。
「世尊よ、わたしたちは世尊に教わって、愛する者との別離に際して流した涙が、四つの大海よりも多いことを知っています」
「よいかな、よいかな比丘たちよ。われらは流転輪廻のその中で、父母の死、わが子の死、友の死に、四つの大海よりも多い涙を流したのであった」
『相応部経典』(5・3)(『釈迦一日一言』より)
というのであります。
いつも冷静なお釈迦様だったのですが、きっと幾度も愛する者との別れに多くの涙を流されてきたのだと思います。
横田南嶺