仏教の原点 – 慈しみ –
盤珪禅師の説かれたことは、終始一貫して、人は皆誰しも親から産みつけてもらったのは不生の仏心ひとつだということです。
そのことをただくり返し説いているのが盤珪禅師の特徴であります。
記者の方から、「不生の仏心」ということを現代の言葉ではどのように表されますかと聞かれました。
そこで、はたと考えました。
それまで漢文を学び、漢文で問答していた禅の世界で、盤珪禅師は、漢文は不要であり、日本人には日本の言葉で十分だと説いたのでした。
それこそ、盤珪禅師の素晴らしいところなのであります。
禅の世界は、漢文の世界でもありました。
それが五山文学などいうものにまで発展していったのでした。
それはそれで素晴らしいものですが、それでは現実の生活で苦しんでいる方の救いにはなり難いところがあります。
盤珪禅師の素晴らしいところは、平易な日本の言葉で人々に教えを説かれたということです。
そして、それが実に多くの方々に救いの光りをもたらしたのでした。
そんな盤珪禅師なのですが、唯一漢語であり、仏教語を用いていたのが、「不生の仏心」であります。
これだけは例外でありました。
そこで、この「不生の仏心」を今の日本の言葉でどう表し、どう伝えるかという問いをいただいたのでした。
しばし考えて、「人は誰しも生まれながらに慈しみ、思いやりの心をもっている」と表現してみました。
「仏心」を「慈しみ、思いやりの心」と訳してみたのでした。
「不生」は「生まれながらに」と訳してみたのでした。
仏教の原点は、この「慈しみ、思いやりの心」にこそあると思っています。
それはあの梵天勧請の話を思うからであります。
仏教の興りは、よくブッダの悟りにあると説かれることが多いのです。
またそれは至極もっともなことでありますが、悟りを開いてそれで終わっていれば、今日仏教は伝わっていなかったのであります。
インドの山中で、一人の苦行者が悟りを開いたというだけのことで終わりであり、今日の世界三大宗教などにはならなかったのであります。
お釈迦様は悟りを開かれて、尼連禅河のほとりの木の下で坐っていて、はじめは次のように思ったのでした。
増谷文雄先生の『阿含経典による仏教の根本聖典』(大蔵出版社)から引用させていただきます。
「わたしがいま証得したこの法は、はなはだ深くして見がたく悟りがたく、微妙にして思念の領域を超え、深妙にして賢者のみよく知るべきものである。しかるに人々は五欲を楽しみ、五欲を喜び、五欲に躍る。かかる人々には、この縁起の理は見がたく、この涅槃の理は悟りがたいであろう。
もしわたしが法を説いたとしても、人々はわたしの言うところを了解せず、私はただ疲労困憊するのみであろう。」
こんなお釈迦様の思いを察した、インドの神さまである梵天はこれはたいへんなことだと思ったのでした。
「ああ、世間は滅ぶるであろう。
ああ、世間は滅ぶるであろう。
いまや世尊の心は、沈黙に傾きて、法を説くことを欲したまわぬ。」
というのであります。
そこで梵天はお釈迦様の前に姿を現して合掌礼拝して言ったのでした。
「世尊よ、法を説きたまえ。世尊よ、願わくは法を説かせたまえ。世間には、その眼の塵垢に蔽わるること少なき人々もある。彼らは、法を聞くことを得なかったならば退き堕ちるであろう。されど、彼らは、聞くことを得ば、悟ることができるであろう。」と。
この梵天のお願いによって、お釈迦様のお心は変わったのでした。
「その時、世尊は、梵天王の勧請を知りて、衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた」というのであります。
この「衆生に対する哀憐の心を生じ」たところが大切だと思います。
するとこの世界には、
「塵垢おおい者もあり、塵垢すくない者もあった。
利根の者もあり、鈍根の者もあった。
善き相の者もあり、悪しき相の者もあった。教えやすき者もあり、教えがたき者もあった。
その中のある者は、来世と罪過の怖れを知っていることも見られた。」というのであります。
そして、次のような譬えをなされています。
「そのさまは、譬えば、蓮池に生いる青き、赤き、また白き蓮の花が、あるいは水の中に生じ、水の中に長じ、水の中にとどまっているもあり、あるいは水の中に生じ、水の中に長じ、水面にいでて花咲けるもあり、またあるいは、水より抜きんでて花咲き、水のために汚れぬものもあるに似ていると思われた。」
ということなのです。
この季節に蓮の花が咲くと、いつもこのお釈迦様の言葉を思い起こします。
そこでお釈迦様は梵天に言ったのでした。
「いま、われ、甘露の門をひらく。
耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。
梵天よ、われは思い惑うことありて、この微妙の法を説かなかったのである。」と。
これを聞いて、梵天王は、お釈迦様は自分の願いを聞き入れてくださったと思って、礼拝して姿を消したというのであります。
これこそが、仏教の原点だと思っています。
まさに、人々、いのちあるものに対して「哀憐の心」を起こして、起ち上がったところが大事なのであります。
あの大仏教学者であった中村元先生は、自らのお墓に碑を建てておられます。
そこには、岩波文庫から『ブッダのことば』を出された先生らしく、「ブッダのことば」が書かれています。
あれほど仏教の文献を読み込まれた先生はいらっしゃらないと思いますが、その先生が選ばれた言葉ですので、仏教の原点、根本精神といってもよいかと思うのであります。
それは、
ブッダのことば
「慈しみ」
一切の生きとし生けるものは
幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ
一切の生きとし生けるものは幸であれ
何ぴとも他人を欺いてはならない
たといどこにあっても
他人を軽んじてはならない
互いに他人に苦痛を与える
ことを望んではならない
この慈しみの心づかいを
しっかりと たもて
というものであります。
慈しみの心、思いやりの心こそが、仏教の原点、根本精神であります。
それこそが「不生の仏心」であると思っています。
横田南嶺