『不要不急』という本
新潮社の新書であります。
七月二十日の発売なので、もう購入できるかと思います。
この本の著者は、なんと十名の僧侶なのであります。
十名の共著で、代表者としては、私の名前を出して欲しいという出版社の依頼でした。
「ああ、私は「不要不急」の代表なのだ」と思ったものでした。
十名の僧侶というのは、私の他には、細川晋輔さん、藤田一照さん、阿純章さん、ネルケ無方さん、露の団姫さん、松島精朗さん、白川密成さん、松本紹圭さん、南直哉さんであります。
私が存じ上げている方も結構多いのであります。
それから、驚いたことには、十名のうちで、私より年長なのは、なんとお二人のみなのです。
藤田一照さんと南直哉さんは、私より年上で、それ以外の方は私よりもお若いのであります。
どこに行っても一番若いとばかり思っていたのが、十名のうちで、上から三番目の年長なのであります。
それだけ、若手の僧侶を集めたということなのでしょう。
どんな内容なのか、目次の一部を紹介しましょう。
一 人生に夜があるように――横田南嶺
「風車風が吹くまで昼寝かな」
「不要不急」の我が人生
「仏法は障子の引きて峰の松」
「有の利を為すは無の用を為す為」
「宗教は夜のようなもの」
「無分別」に触れる
二 「不要不急」という禅問答――細川晋輔
「生老病死」に直面する
二つの柱を奪われる
禅問答の教え
オンライン坐禅会とYouTube法話
「随所作主、立処皆真」
「請う其の本を務めよ」
「生ききる」という生き方
「葉を摘み、枝を尋ぬること莫くんばよし」
死という機会を利用する
人生は生きるに値する
「悪い縁を良い縁に」
「わからないもの」と向き合う
三 お前はお前の主人公か?――藤田一照
この一日をどう過ごすのか?
この自粛は主体的な自粛なのか?
自分自身や他人に騙されてはいないか?
ステイできる自分の「ホーム」はあるのか?
四 要に急がず、不要に立ち止まる――阿純章
〝要〟と〝急〟からの解放
ポケットの中の不要不急
「途中にありて家舎を離れず。家舎を離れて途中にあらず」
「我」ベースの現代社会
「自分」という幻想
他力社会へのパラダイムシフト
〝矢印〟を〝円〟に変える
私の問題は〝私〟である
というようなものです。
これ以上ご関心をお持ちでしたら、是非お買い求めください。
私個人的には、阿純章さんの文章が読みやすく、リズムが心地よくて、それでいて内容が深く考えさせられます。
コロナ禍にあって、予定がなくなって、時間に余裕ができたということは、どの和尚さんたちも同じのようです。
その中でも阿さんは、
「私も自粛状態でいろいろな予定がなくなり、ぽかんとあいた時間で子どもと遊ぶ機会が増えた」といいます。
お寺に幼稚園もあって、園長先生でもある阿さんは、子供たちと「かくれんぼをしたり、かけっこをしたり、夕方まで子どもたちと遊んでいた」そうです。
そんな中で、阿さんは、幼稚園に通うご自身のお子さんのことを述べておられます。
「……桜が満開の時のことであるが、何を思ったのか自転車を引っ張り出してきて、そのカゴに桜の花びらをかき集めて入れはじめたのだ。
勿論、カゴは編み目が粗いので花びらは下からどんどん散っていく。そのうち周りで遊んでいた子どもたちも仲間に加わり、こぼれ落ちた花びらが時おり風で飛ばされて舞い上がると、キャッと笑って楽しんでいるのだ。
大人からすれば「何のために……」と思うだろう。遊びは子どもにとっての仕事という言い方もあるが、その行為はほとんどが不要不急だといってもいい。
しかしそんな子どもたちの姿を眺めていると、「雪を担うて井を填む」という禅語が脳裏に浮かぶ。
雪を担いで井戸に投げ入れ埋めようとすることだが、雪は当然溶けてしまう。
それでもひたすら繰り返す中に禅の境地があるという。」
と書かれています。
満開の桜の花で遊び戯れる子どもの姿を思い浮かべるだけで、まるで素晴らしい絵を鑑賞している気持ちになれます。
そして、阿さんは、
「必要のない宝物を集め、今ここにある充実した日々をたっぷりと過ごしていた子どもも、やがて大人になると必要を求めて先へ先へと急ぎ足で、あれこれ体裁をととのえ建前ばかりの空虚な生き方になってしまうのはなぜだろう。
青空の下に咲く満開の桜、子どもの笑い声、素敵な妻(これは絶対に外してはならない)、今目の前には素晴らしいものがいっぱいあるのにもったいない話である。不要不急は人生を楽しむための秘訣でもあるのだ。」
と語ってくれています。
素敵な奥様や、元気な子どもたちに囲まれて幸せいっぱいの阿さんのお顔が思い浮かびます。こちらまで幸せな気持ちにしてもらえるのです。
私の「人生に夜があるように」というのは、以前にも紹介したことのある、山田無文老師の言葉を引用させてもらったのでした。
「古い新聞の切り抜きで、何新聞でいつのものかも分からなくなってしまっていますが、良い言葉と思って、書き取っていたものです。
「人生に夜のあることはうれしいことである。どんなに仕事の好きな人も、夜は仕事を忘れて眠る。どんなに金もうけの好きな人も、夜はその貪欲をわすれて眠る。どんなに学問の好きな人も、夜は本を書棚におさめて眠る。生命をかけた戦場の勇士も、夜は銃をまくらにしてしばしをまどろむであろう。
宗教の世界も、夜のようなものではなかろうか。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、善き者にも悪しき者にも、神は同じく雨を降らせたもう。世の成功者も、ここではその誇りを忘れて平凡な人の子となり、世の敗残者も、ここではその失意を忘れて、神のふところにいだかれる。
宗教の世界とは、夜のごとく争いと裁きの憂いのないやすらぎの世界である。」という言葉を引用して、
「「不要不急」が無くなってしまっては、人間は疲弊します。夜が無くって昼だけになったら、疲れ果てるようなものでしょう。」と書いたのでした。
おてらおやつくらぶの代表理事でもある松島靖朗さんの文章も素晴らしいものです。
終わりのところに、
「コロナ禍の中で、こんなときだからこそお寺の出番だ、とお寺でも新しい取り組みがたくさん発信されました。
でも違和感を覚える取り組みも多くありました。自利発想でお寺の経済的な困難を克服するための取り組みが見え隠れする「ピンチをチャンスに」のアクションは不要不急です。
「ピンチをチャンスに」できない、ピンチで孤立する人たちのために、利他発想で救いに行く菩薩道、要・急の求道者でありたい。それこそがお寺が、僧侶が、お釈迦さまの教え、仏法を実践していくという必要緊急の役割なのです。」
という、利他の心を説いて下さっています。
実に読み応えのある構成であり、内容であります。
この本の企画が私のところに来たのは、まだ今年の一月でありました。
夏頃に出版の予定だというので、夏頃にはコロナが収まっていたら、『不要不急』なんて本を出しても、それこそ不用になりますよと出版社の方に申し上げたのでした。
それが、収まるどころか、まだ感染の拡大に苦慮していて、都内の緊急事態宣言、不要不急の外出自粛の最中の出版となりました。
思えば私が、
「予定消え すべて不要不急と知る」
という川柳を作って自嘲していたのは、昨年のことでありました。
それがもう今ではすっかり不要不急になれてしまっています。
そして、『不要不急』という本まで出て、とうとう、その不要不急の代表にまでなったのであります。
ただし、お願いしたいのは、おもしろそうな本だと思って、あわてて買わないでくださいということです。
この本、なにせ「不要不急」ですから……
横田南嶺