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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.07.12
今日の言葉

心はどこに

八木重吉の詩に、

 「心 よ」という題の詩がございます。

こころよ
では いつておいで

しかし
また もどつておいでね

やつぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行つておいで

というのであります。

詩人らしい感性であります。

心はどこにあるのでしょうか。

心は無いという方はほとんどいないだろうと察します。

困ったことがあると、心が痛むと申します。

悲しくなるのも、うれしく思うのも、心であります。

しかし、心は目に見えません。

目に見えないけれども、それでいて無いとはいえないものです。

心と書いて、「うら」と読む場合があります。

『広辞苑』には、「(表に見えないものの意)こころ。おもい。」と解説されています。

「心思ふ」と書いて、「うらおもう」と読みます。「心中にかれこれと思う。心配する。また、考えが決まらずにためらう。」ことの意です。

「心恋し」で「うらごいし」と読み、「心の中で恋しく思う」ことを言います。

心は表に見えない、うらにあるというところでしょう。

そもそも。「心」とは何か、『広辞苑』を調べてみますと、

元来は、「禽獣などの臓腑の姿を見て、「こ(凝)る」または「ここる」といったのが語源か。」と書かれています。

そして「転じて、人間の内臓の通称となり、更に精神の意味に進んだ」というのであります。

もともとは、人間の内臓のことを言ったようです。

それが更に「人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。」という意味で使われます。

そして、「知識・感情・意志の総体。」

「思慮。おもわく。」

「気持。心持。」

「思いやり。なさけ。」

「情趣を解する感性。」

「望み。こころざし。」

「特別な考え。裏切り、あるいは晴れない心持。」という様々な意味に用いられます。

『臨済録』には、心はどこにあるのか、はっきりと説かれています。

「心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。

眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけば嗅ぐ。

口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれは一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。

その一心が無であると徹見したならば、いかなる境界にあってもそのまま解脱だ。」
と説かれています。

いくら目という感覚器官があっても、心が無ければ見ることができません。

耳にしても同じです。耳だけがあっても、心が無ければ聞くことはできません。

「一心が無」であるとはどういうことでありましょうか。

単に心が無くなることではありません。

心が、なにものにもとらわれない状態をいうのであります。

そのあたりの消息は、甲斐和里子さんの和歌がよく詠っています。

岩もあり 
木の根もあれど
さらさらと 
たださらさらと
水の流るる

という通りであります。

ひとつのところに、滞らないといいのであります。

心があるから、立とうとすればスッと立ち上がることができます。

今北洪川老師は、

「各々の胸の内には自性本来の仏と言うて結構な仏が光をはなってござる。」

と明言されています。

そして、「然らば此立つやつ、居るやつ、見るやつ、聴くやつに気を付けて、成程仏法はこいつじゃと、只一念信入するが肝心じゃ。

信心の志さえあれば是ほど成仏の近道はあるまい。

忽ちに大安楽の境界に至ることは間違ひ無いことぞ。

併し曖昧なことでは行きませぬ。

何分にも左様な好消息の有る御人は、早速予が室内に来て、徹底会得した趣を、有様に呈して、差図を受けるが好い。

独り済ましではいけませぬ。

元来御釈迦も云れた通り、「一切衆生悉具如来智慧徳相」とあるからは、各が固有の仏は、釈迦にも弥陀にも、少しも異ることは無いことは、素より知れてある。

そこで万物の霊長とも称するのじゃ、其貰いものを持て居ながらわしは凡夫じゃ、愚癡無知の者じゃと、自ら成り下って、或は色々のすがり物を拵へ、それに束縛せらるるは、誠に不甲斐無い事じゃ。

全体一切衆生が、諸法の束縛を受けて居る、其束縛を解いて、自主自由大安楽の徳権を与ふるのが、宗門の趣意じゃ。

畢竟ずる処は、他仏の光明を仰がず、各の大光明を放たしむるを、吾が臨済の宗意とす。取も直さず、此賛題の一語を以て建て理とするのじゃ。」

と説かれているのであります。

立とうとしてスッと立つものは何者か、それこそ心にほかなりません。

その「心」こそが「佛」であって、外に別に「佛」を求める必要はないと説いたのが臨済禅師であります。

臨済禅師は、お説法のときに、

「お前達、祖師や仏を知りたいと思うか。お前達がそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ。」と喝破されました。

「ただ、お前達がこれを信じ切れないために外に向かって求める。

そんなことをしてたとえ求め得たとしても、それは文字言句の概念で、活きた祖師の生命ではない」というのです。

「お前達、わしの見解からすれば、この自己と釈迦と別ではない。

現在、日常のはたらきに何が欠けているのか。

六根を通じての自由なはたらきは、今までに一秒たりとも止まったことはないではないか。」

と示されました。

目で見たり、耳で聞いたり、舌で味わったり、みなこれ心のはたらきにほかなりません。

この心は、あまりにも近くて有り難いと感じることもないのですが、実にこれ以上に尊いものはない、佛そのものなのです。

心はどこにも行きはしないのです。

十方世界に満ち満ちているのです。

私たちは、その中で起き伏ししているのです。

 
横田南嶺

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