まなざし ー許すよりも理解をー
レジリエンスということについて書かれています。
このレジリエンスということは、私も最近になって学んだことでありました。
このレジリエンスというのは、「もとはバネの伸縮を意味するが、心理学では打たれ強さとか、へこたれないでいる精神と訳される。」というのです。
最相さんは、「私が初めてこの言葉を知ったのは、ユダヤ系フランス人の精神科医ボリス・シリュルニクさんの著書『心のレジリエンス 物語としての告白』(林昌宏訳・吉田書店) を読んだ時だ。」
と書かれています。
この「シリュルニクさんは幼少期にナチスの一斉検挙で家族を失い、自身もフランス警察に逮捕されたものの逃走した経験をもつ」のだそうです。
「戦後しばらくは体験を人に話しても誰も信じてくれず、かえって傷を深め、沈黙を余儀なくされた。
苦学の末に精神科医になり、アウシュビッツで生き残った人々の聞き取りなどをしてトラウマ研究の権威となるが、自分自身について語ることはなかった。」のでした。
それがやがてフランスが、ナチスに協力したことを認めるようになって、自身の体験を語るようになったというのです。
「『憎むのでもなく、許すのでもなくユダヤ人一斉検挙の夜』(同前) はシリュルニクさんの自伝であるが、子どもの頃から、非人間的な体験の記憶を無意識のうちに修正し、勇気と希望にあふれる冒険譚のように仕立てあげて、繰り返し自分に語り聞かせることで、過去の記憶の囚人となることから逃れてきたことが語られる。」というものです。
最相さんは、
こういうことを「記憶のねつ造といってしまうと身も蓋もないが、体験があまりに悲惨である場合、事実を加工せずそのまま想起するのはひどく苦しい作業である。
哲学、文学、宗教、政治など、あらゆるものを介在させることで思い出を変質させ、修正しなければ人は生きていけない。」と書かれています。
辛い過去の出来事は変えられなくても、自分の心の中でどのように受けとめるかを変えることができるということです。
最相さんは、「このような心の動きがレジリエンスであり、シリュルニクさんが自分を含む多くのサバイバーたちの経験を通して見出した真実だった。」というのです。
そこで、「憎しみから抜け出すためには、許すよりも理解するほうがいい」というシリュルニクさんの言葉を紹介されています。
「許すよりも、理解すること」という言葉に感銘を受けました。
そして物事を正しく理解することこそが、苦しみからの解脱になるというブッダの教えを改めて思ったのでした。
そんなことを思っていると、送られてきた日本講演新聞の七月五日号に、鴨頭嘉人さんが、「事実よりも大切なこと」という題で書かれていました。
鴨頭さんは、いじめについて研究されたそうです。
「子どものころにいじめにあった人が、その後どういう人生を歩むか」を研究されたのでした。
鴨頭さんは、「子どものころにいじめられていた時、「自分に悪いところがあるな」と思っていた人と、「自分は悪くない。おかしいのはいじめているほうだ」と思っていた人とでは、その後の人生に違いがみられた」と書かれています。
「自分は悪くない」と思っていた子どものほうが、その後の人生で幸福を感じる度合いが高い傾向があるのだそうです。
そこで鴨頭さんは、「いじめられた」という過去の事実は消すことはできなくても、でもその事実に対する捉え方なら、今からでも変えられると説かれています。
「何が起きたか」ではなく「どう解釈するか」が、お互いの人生にとっては大事なことだと鴨頭さんは訴えていました。
そこで、私が感動したのは、鴨頭さんのお子さんの話です。
鴨頭さんのお子さんが学校で乱暴な子にいじめられていることが分かったそうです。
鴨頭さんは、その子と一緒にお風呂に入って聞いたのだそうです。
「いじめられているとき、どうしているのか」と。
お子さんは、答えたそうです。
「いじめる子は僕が憎いんじゃない。
寂しいからいじめているんだ。だから僕はその子の目をジーッと見る。
するともう何もしなくなるんだよ」
というのでした。
鴨頭さんは、「確かにいじめている子は「もっと愛されたい」という気持ちが満たされず、強引に誰かの関心を引こうとしているのかもしれません」と言い、そして自分の子は「感覚的にこれを理解したのでしょう。だから「自分は悪くない」と思っていて、しかも同時に「でも相手も悪くない」と考えていました」と分析されています。
鴨頭さんは「すごいな」という感動が溢れてきて、「顔を洗うふりをしてこっそりと泣きました」と書かれています。
私も目頭が熱くなるような感動を覚えました。
自分が悪いわけではないと思って、そして相手も悪いわけではないと思うのです。
そして、いじめる相手を許すというよりも、「寂しいからいじめているんだ」と理解しているのです。
そのような正しい物の見方をして、相手を見つめるのです。
このまなざしことが、慈愛のまなざしだと思いました。
可哀想だから、何とかしてあげようというよりも正しくその様子を理解して見つめる眼であります。
そんなまなざしを持ちたいと思います。
坂村真民先生のまなざしの詩を思い出しました。
ふたつご紹介します。
まなざし
まなざしを
変えない限り
戦争は起こり
平和は来ない
憎しみの心を
捨てない限り
争いは絶えなく
幸せは来ない
無差別平等の
宇宙のまなざしを持つ
新しい人間の
出現を祈ろう
まなざし
シャカやイエスから
学びとるものは何か
それはあのまなざしだ
仏教学神学
そんなものは要らぬ
慈悲に満ち
愛に輝く
あのまなざしだけでいい
横田南嶺