「死」は贈り物
「『死』は天が与えてくれた素晴らしい贈り物」という題で、医療法人社団 兵庫青山会 篠原医院 院長の篠原慶希先生のお話が載っていました。
「死」が素晴らしい贈り物とは、どういうことでありましょうか、驚く言葉であります。
篠原先生は、
「私は、死とは「天が与えてくれた素晴らしい贈り物」だと思っています。
死があるから人生が輝くのであって、それがなくていつまでも生きていたらどういう人生になるのか、想像すらできません。」
と仰っています。
そういえば、随分以前のことですが、ひろさちや先生の講演を聴いた時に、ひろさちや先生が、「人間死ぬからいいんですよ」と仰ったのを思い出しました。
ひろさちや先生は、「死ななかったら、たいへんですよ。
まだその辺に石器時代の人がウロウロしてたらたいへんですよ」
と言って笑わせてくれていました。
私も聴きながら、そうだな、死なないということは、みんな生き残っていることであって、鎌倉の町など、いまも武士が刀を持って歩いていたり、馬に乗っていたりしたら、たいへんだなと思ったことでした。
ただでさえ、車が渋滞する鎌倉が、馬に乗った武士が道を通ったりしたら、とんでもないことになるななどと思ったのでした。
そう考えますと、死んでゆくから、いいのかもしれません。
しかし、こうして考える死は、第三人称の死であります。
他人事の死でありますから、死んでゆくからいいのだと思うことができるのです。
これが第二人称になると、違ってきます。
自分にとってかけがえのない大切な人の死となると、何とか生きていて欲しいと思うものであります。
まして況んや、これが一人称の死になるともっと切実になります。
大田 南畝が「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」と詠った通りであります。
十返舎一九が「この世をば どりゃ お暇に 線香の 煙とともに 灰 さようなら」というように洒脱に逝ければいいのですが、なかなかそうはいきがたいものです。
お釈迦様は、若き日に、死人をご覧になっては、世間の人はやがては必ず死ぬものであり、死は何人も避けられないものであるのに、自分が死ぬことを忘れて楽しみにふけっている、果たしてこれでよいのであろうかと、思い悩まれて出家されたのでした。
お釈迦様は、
「わき目をふらず 華をつみ集むる かかる人をば 死はともない去る まこと 睡りにおちたる 村をおし漂す 暴流(おおみず)のごとく」と法句経の四七番に詠っています。
また同じく法句経の一二八番に、
「虚空(そら)にあるも 海にあるも はた 山間(やまはざ)の窟(あな)に入るも およそ この世に 死の力の およびえぬところはあらず」
と誰しも死を逃れることはかなわぬことを説かれています。
海の近くは危ないと思って、山に引っ越すと、崖崩れが起きたりします。
山は危ないと思って、町に住むと交通事故に遭ったりしてしまうのです。
そんな死を、篠原先生は、「苦しい」ものではないと書かれています。
「実は死ぬ瞬間は、脳にエンドルフィンという物質が大量に出て恍惚(こうこつ)状態になります。夢見心地な状態で旅立つことができるので苦しくはありません。」というのです。
お医者さんがそう仰るのだから、苦しくないのかなと思ってしまいます。
篠原先生は、ご自身の体験で、七十代の末期癌患者の話を書かれています。
「この方は大学病院で肺がんの治療を受けていたのですが、末期状態で治療が効かなくなり、最期を看取ってほしいとのことでした。
病院で看取るといっても、まだ今のような看取りの体制ができていませんでしたから、とにかく点滴をしたり、食事の介助をしたりという毎日でした。
ある晩、その方の呼吸状態が悪くなりました。瀕死の状態でしたのでご家族と相談して、少しでも延命できるように人工呼吸器を着けました。
すると呼吸が落ち着いて意識が戻り、数日後には自分で呼吸できる状態になったので、人工呼吸器を外しました。
やがてその方は会話ができるくらいにまで回復されました。そして最初に言われた言葉は何だったと思いますか? 「先生、助けてくれてありがとう」と言われたと思いますか?
その方はこう言われたのです。「先生、あんなに気持ちよかったのに何でまたこんな苦しい現実に戻したんや! あのまま逝かせてくれたらよかったのに」と。」
という話なのでありました。
考えさせられます。
立花隆さんが先日お亡くなりになりました。
立花さんの本はいろいろと読ませていただきました。
ご冥福をお祈りします。
とりわけ、2015年に出版された『死は怖くない』という本は、よく学ばせていただきました。
立花さんが、臨死体験などの事例もたくさん調べられてきて、最後にたどりついた結論が、私などが禅の修行で体験してきたことと極めてよく似ていることに驚いたのでした。
この本の中で、立花さんと対談している、NHKの科学番組のディレクターの岡田朋敏さんという方が、
「臨死体験者の話に耳を傾けると、最後に自分というものが世界と一体化する、
そういう表現をする人が実に多いですね。
実は、先ほど話に出た明晰夢の研究をしているラバージも、夢の最後に見る「自分の死」のイメージは、いつもそういう体験なのだそうです。
彼の言い回しで言うと、
「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンと溶けて自分がなくなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」と。
科学的にあれはどういうことなのだろうと興味を覚えました。」
と語っているのに対して、立花さんが
「五木寛之さんが『大河の一滴』で親鸞の思想を、「すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向かうという大きな生命の物語を信じることにほかならない」と説明していますね。
道元も似たようなことを言っている。まさにラバージの夢と共通したイメージです。
西洋人にとっては目新しい語り口かもしれないけれど、東洋にはそういった世界観は昔からあった。
そういう意味で、意識の科学は東洋的な世界観に近づいていると言えると思います。
深いように見えて、実は深くないけれど、本当は深い、みたいな話です。」
と答えています。
「自分というものが世界と一体化する」
というところは、禅の修行で体験するのとよく似ています。
自分というものが消えて、世界とひとつになっているのであります。
死というものが、この自分というものが消えて世界と一体化することだとすれば、まさしく禅の修行は、死の稽古をしているものと言えましょう。
古人が大死一番と言われたのもなるほどと頷けます。
この本の終わりの方で、立花さんが、取材を続けてきて死ぬということがそれほど怖くなくなってきたと書かれています。
「ギリシャの哲学者にエピクロスという人がいるんですが、彼は人生の最大の目的とは、アタラクシア=心の平安を得ることだと言いました。
人間の心の平安を乱す最大の要因は、自分の死についての想念です。
しかし、今は心の平安を持って自分の死を考えられるようになりました。」
と書かれているのです。
それはどういう心境かというと、
「結局、死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験なのだから、いい夢を見ようという気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか。そういう気持ちになりました」
ということなのであります。
立花さんもあれだけたくさんの素晴らしい業績を残されたことですから、きっと「いい夢を見よう」という気持ちで安らかにお亡くなりになったのだろうと思っています。
謹んでご冥福をお祈りします。
横田南嶺