刀も折れる
毎日何度も読んでいるのであります。
『観音経』というのは、人々が苦しんで、観音さまに助けを求めて、観音さまの名を呼べば、たとえ火の中、水の中であっても必ず救ってくださると説かれているのです。
自ら努力して修行してゆこうという立場の禅宗が、どうして、こんなお経を読むのか、長らく不思議に思っていました。
釈宗演老師の『観音経講話』には、
「私自身が観世音菩薩の現われである。」と観世音菩薩の真義をはっきり説いてくださっています。
宗演老師は、「多くの人のうちには、それは坊さんの側からそういうのであろう、仏教の見るところはそうでもあろうけれども、我々は人間であって、観音の現われではない、とこう思う人もあるかもしれない。
しかし、私に云わせると、どうしても我々は観世音菩薩の現われであると、明らかに云い得ると思う。
それは何故かというに、……だいたい観音というのは、観音すなわち慈悲と智慧と、そして勇猛心のこの三つの現われである。」
と明確にお示しなのであります。
観音とは、智慧と慈悲と勇猛心を具えた私たちの本心にほかならないのです。
そして、観音様の名を称えることは、その本心に目覚めることなのです。
『観音経』には、観音さまの名を称えれば、火に入っても焼けず、水に入っても溺れないと説かれていますが、これも単なるご利益を説いているのではないのです。
宗演老師は、
「我々が心に逆らった境遇に身を投じる時には得て、怒りを発するものである。こういうことはお互いに経験していることと思う。
誰にでもあることと思うが、自分の思っていることに、あべこべのことを持って来ると、猛火炎々として、嗔りの心が頭をもたげてくる。人と人とが何か話をして、ひょっと感情の衝突を起こすと、心の中の猛火が炎々と燃え立って来ることがある。
そういう時には平生、観音様を信じておる人、少なくとも平生、多少精神的の修養がある人ならば嗔(いかり)の心がむっと頭を上げて来たのを、まぁ待てと頭を押さえることができる。」
と説かれていて、火というのは、瞋の炎のことだというのです。
瞋の炎の起こった時に、観音様の名を称えると、即ち私たちの本心に目覚めたならば、猛火をおさえることもできるのであります。
どのように観音様を拝むのかということについて、宗演老師は、
「どうして拝むかというと外でもない、我々は観音様の現われであるはずである。
言い換えれば、我々は大慈悲の現われである。
我々は大智慧をもとよりもっているはずである。
我々は大勇猛心をもっているはずである。
とこういう工合に拝むのである。
すなわち自省自憤で人に瞋らず、我を責めるのであります。」と説かれている具合なのであります。
水は何かというと、
「この貪慾、愛慾は、多くは迷いの水といって、水に譬えられている。愛河―愛着の河にも譬えられており、愛着の海とも譬えられている。」
「その迷いの水のために、宝を失い身を滅ぼすものは、今日も、また古い因縁話にもたくさんあるが、最も手近いところでは日々の新聞紙上にもたくさん現われている。」
と説かれている通りです。
愛欲、愛着に迷うのであります。
そんな時に観音様の名を称えるのです。
それは即ち、
「我々は観音の智慧の現われである、観音の大勇猛心の現われである。
そういう自覚をもって我が本心に立ち返るのである。
南無観世音の力というものには、何物も敵することができない。
その力をもって愛着の水を退けるのである。」
ということになるのです。
それから、刀杖の難といって、刀や杖などで打たれる災難がございます。
そんな時にも観音様の名を称えると、刀が折れてしまうというのです。
これは何を意味しているのかというと、宗演老師は「刀杖というのは、我々の驕慢瞋恚の心を指している」と示してくれています。
驕慢とは、おごりたかぶって人を侮ることです。
宗演老師は、「驕慢の心が盛んになると、ほとんど自分の身を忘れて人を損ない、いろいろの罪科を現してくるのである」と説かれています。
謙虚に観音様を念じることによって、驕慢の心が折れるということなのです。
修行の世界には、この驕慢が付き物であると言って良いでしょう。
とりわけ厳しい修行に励むほどに、この驕慢がつきまといます。
気がつかないうちに、驕慢になってしまっています。
お釈迦様が、『法句経』五十番に
「他人の過失をみるなかれ、他人のしたこと、しなかったことを見るな。
ただ、自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。」
と説かれていますように、他人の過失を口にするようになってくると、驕慢になっている証拠だと反省するといいと思います。
驕慢の刀で、誰かを傷つけようとしているのです。
いや人を傷つける前に、自らを傷つけているのです。
そこに気がついて謙虚に手を合わせて観音様を念じるのであります。
諸方の厳しい修行道場をいくつも渡り歩いて、多くのすぐれた老師方に参禅された老僧にお目にかかった時のこと、修行時代のお話を是非ともうかがいたいと思って、お願いしたことがありますが、そのご老僧は、「私は恥をさらしてきただけですから」と言って、何も語ってくれなかったことがあります。
その実に謙虚なお姿に、禅僧とはかくあるべきと感動したことを覚えています。
ついつい、修行時代のことなど、物語のように語るのは気を付けないとなりません。
唐代の禅僧趙州和尚という方は、そのような仏法の臭さが残るものを特にお嫌いになったように感じます。
語録を拝読していても、
「仏の一字、吾れ聞くことを喜ばず」という言葉があります。
仏という言葉は聞くのもいやだというのです。
まして況んや、悟り臭い話などもってのほかでしょう。
『趙州録』を拝読すると、私も大いに反省させられます。
『円覚』のうら盆号に、「拝む心で生きる」と題して、参禅したといっても何も得たものも無く、ただ礼拝を重ねたのみだと書いたのでした。
趙州和尚がある時に、一人の僧が仏殿で礼拝するのを見て、なんと棒で打ったのでした。僧が、礼拝することはよいことですというと、趙州和尚は「よいことはないほうがいい」と言われたのでした。
「好事も無きに如かじ」という言葉であります。
修行に驕慢は付き物と思って、常に観音様を念じて、驕慢の刀で自らを傷つけ他人に害を及ぼすことのないように気を付けないといけないと自戒しています。
そのためにも『観音経』を毎日読むのだと思います。
横田南嶺