この道を行く
「禅とこころ」という講座で、これは毎回いろんな講師が講義をされるのであります。
私も実は、花園大学の総長になる前にも年に一度、この講座でお話をしてきたのでした。
今や、月に一度講義をしているのであります。
もともと公開講座でありましたので、有り難いことに大勢の方にお集まりいただいていました。
教堂という大きなホールで講義していましたが、二百名くらい入るところが、いつも満席で補助椅子も出して聞いてもらうという盛況ぶりでありました。
それが、このたびの新型コロナウイルス感染症拡大によって、様相は一変しました。
昨年の前期はオンラインのみでの講義となりました。
後期の秋から、大学での授業を再開しましたが、公開講座にすることはやめて、学生のみで、しかも一番大きな五百名入る大講義室で、百名ほどの学生のみを対象に行うようになりました。
今年になると、今度はハイブリッド形式ということで、学生の半分は、オンラインで受講してもらうようになったということで、大講義室には数十名の学生だけとなりました。
ですから、五月に授業しようと思って大学に行った時には、教室があまりにもがら空きだったので、教室を間違えたかと思ったほどでした。
六月の授業は、あらかじめ教室での受講生はおよそ十名ほどで、後はオンラインで受講することになっていると言われていました。
たとえ十名の学生であっても、現場に行って直接語ることが大事だと思って出掛けたのでした。
ところが、十名と聞いたいたのに、
今回は、数十名の方が受講してくれて驚き、嬉しく思ったのでした。
前々回は、大勢いるだろうと思って出掛けて、数十名だったので、愕然とし、今回は、十名くらいの受講生だと聞いて行ったところが、数十名いたので嬉しくなったのでした。
同じ数十名であったもこちらの心の持ちようで、愕然とするし、嬉しくもなるものだと改めて心の持ちようを学びました。
今年度は、「十牛図に学ぶ」と題して、十牛図を講義しています。
今年度六回の授業で、十牛図を一通り学ぼうと思っているのです。
第一回目の時には、序文のほんの一文のみを紹介して、十牛図とはどんなものかを話しました。
今回から、一回に二つの絵を取りあげて講義し始めました。
テキストとして、十牛図の絵と漢文の漢詩を用いるのでありますが、この講座は仏教学の人たちだけが受講するのではないので、漢文を一応紹介しますものの、それを踏まえて現代語にして、今の方にも通じるように話をするようにしました。
専門の学生のみであれば漢文の一字一句を丁寧に説明しますが、それを行うと多くの受講生にとっては退屈になってしまいます。
今回は、「尋牛」と「見跡」の二枚を語りました。
「尋牛」というのは、牛を尋ねて歩み出すところであります。
牛とは、本当の自分、理想の自己、目指すべきところを表すと伝えました。
それが、「従来失せず、何んぞ追尋を用いん。」という一句から始まっています。
訳しますと、「はじめから見失っていないのに、どうしてさがし求める必要があろうか。」ということになります。
どうしても私などは、現代語訳にしてしまうよりも、「従来失せず、何んぞ追尋を用いん。」という漢文の方が響きがよくていいなと思ってしまいます。
本来の自己といってもどこか遠くにあるものではないのです。
もともと失ってはいないので、求める必要もありはしないのであります。
求める自分というのは、この自分にほかならぬと気がつけばいいのです。
二番目が「見跡」で、牛の足跡を見つけたところです。
これは、「経に依って義を解し、教を閱(けみ)して蹤を知る。」という一文で、訳しますと、「仏の説かれた経典をたよりに、道理を了解し、祖師の教えを読んでその足跡を知った。」という段階であります。
そこで、授業の後半では、この私自身がどのようにして、この道を歩んできたかについて簡単に話をしてみました。
私は、ただいま円覚寺の管長であり、花園大学の総長という立場にありますが、もともとは紀州の在家の生まれで、鎌倉の円覚寺とも花園大学とも何のご縁もありませんでした。
それがどうして、この道に入ったのというと、満二歳の時に祖父の死に遭ったことが一番おおもとにございます。
「人は死ぬ」ものだと知ったのでした。
「死んでどこに行くのか」「死とは何か」、これが大きな問題となりました。
私の生涯を貫く課題となりました。
小学生の時に同級生が亡くなるということを体験して、死はいつ訪れるか分からないことを知りました。
「まったなし」なのだと気がついたので、なお一層死に対しての答えを見つけたいと思い、哲学宗教などの本を読み、お寺や教会などを訪ねるようになりました。
そんな中で、禅寺で坐禅をして、そこで禅の「老師」と喚ばれる方にはじめてお目にかかりました。
まだ小学生でありましたが、和歌山県由良町の興国寺の目黒絶海老師のお姿に触れて感動し、ここに死に対する答えがあると思ったのでした。
老師は、禅の語録を講義される前に、手を合わせて「今日ここにお集まりの方はみんな仏さまです」と言って私たちを拝まれたのでした。
そして、「坐禅すれば、八百万の神々が体の中におさまっている」とお話してくれました。この言葉にも感動したのでした。
やがて、中学に入って独参するようになった時に老師は、私に、
すべっても
ころんでも
登れ不二の山
と色紙に書いてくださいました。
この言葉は修行時代の支えとなりました。
ちょうどその授業の日にも、このたびよその学校に赴任なさることになった方が挨拶に見えてくれて、辛い時に、私が紹介したこの言葉が支えとなりましたと言って下さったのでした。
有り難いことです。すべってもころんでも、これは誰にでもあることなのです。
それでもすべったところから、そしてころんだところから起き上がってまた前に進めばいいのです。
それから、中学の時の松原泰道先生との出逢いを語り、そして高校時代に山田無文老師にめぐり合ったことを語りました。
山田無文老師という方は長らく花園大学の学長をお勤めになった高名な老師でありました。
私は、当時無文老師のお話をラジオで聴きました。
今も覚えています。
無文老師はこんなことを仰っていたのです。
「この地球を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも跣足(はだし)で歩ける。
が、それは不可能である。
しかし自分の足に七寸の靴をはけば、世界中を皮で覆うたと同じことである。
この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。
しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを捧げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったにひとしい」
チベットの経典の言葉だそうですが、聴いて感動しました。
一度この方に会ってみたいと思いました。
思えばかなう、念ずれば花ひらくというのか、お目にかかることができたのでした。
またその同じ頃に、当時円覚寺の管長だった朝比奈宗源老師のご著書に感銘を受けたのでした。
円覚寺の朝比奈老師の本に出会い、花園大学学長の山田無文老師にめぐりあって、私なりに「この道よりわれを生かす道なし、この道をゆく」という武者小路実篤さんの言葉のように、心に決めたのでした。
そのようにして、書物や人ととの出逢いを通して、私は私なりの「見跡」、牛の足跡を見つけて、歩みだしたのですと話をしました。
話し終わった後で、人間も自分の過去を語るようでは、もう駄目だと反省したのでした。
横田南嶺