ダブルバインドとは?
「ダブルバインド」ということについて、書かれていて考えさせられました。
海原先生は、
「先日、関西の大学の社会学部で話をした後、学生の皆さんに今考えていることや不安に思っていることなどをきいてみたら社会の矛盾や問題点をたくさんリポートしてくれた。
そのなかで何人かが指摘していたのが「大人のダブルバインド」である。」
というのであります。
ダブルバインドというのは、「二つの相反するメッセージを同時に出すというもの」で、それは海原先生は「相手を混乱させ信頼関係を失わせる危険なものである」と指摘されています。
かつて六月六日の「新・心のサプリ」に「五輪のダブル・バインド」という題で書かれていました。
その折りに、海原先生は、
「新型コロナ禍というウイルスに対する不安だけでなく、ダブル・バインドという心理からではないかと思う。」と今の時代の不安をそのように指摘しておいて、
「子どものころ、父親と母親から一つの課題について全く違うことをいわれると当惑して親が信じられなくなったりするものだが、こうしたダブル・バインド状態が今の日本の空気のように思える。」
と書かれていました。
そこで、
「その顕著なものがオリンピックに関するメッセージだ。
米政府は5月24日、日本での新型コロナ感染の拡大を受けて渡航警戒レベルを最も厳しい「渡航中止」に引き上げている。
その一方で、米国オリンピック・パラリンピック委員会は選手団の派遣に影響はないと強調している。」
ということが書かれていました。
そういうことがあるな、その通りだなと思いました。
こういう風に相反することを一度に言われると、困ってしまうものであります。
これは六月六日の記事でした。
そして更に二十七日に、再びこのダブルバインドについて触れられているのであります。
たとえば、ある学生が「自立」ということについて、「卒業後就職したら実家を離れようと計画したら反対されたけれど、常日ごろ親は「自立しなさい」と言っている。矛盾していて困っている」ということがあるそうです。
或いは、「近年、個性的な人材が求められている」と言うのに、「就活はみな同じスーツと同じ髪形でなければならないのは、矛盾している」ということもあります。
「急がなくていいですよ、あなたのペースで仕事をしてください、と言われたから自分のペースで仕事を進めていたら、「なんでまだ済んでないんだ」と上司に怒鳴られた」、などということを挙げられています。
海原先生は、「ダブルバインドの背景にある心理は、建前と本音の違いだと思うのだが、困ったことにこうした発言をする本人はそれに気づいていない。」ということを指摘されています。
「建前の理想論を語りながら、突然自分の本音を言い出す大人たちと若者はどうかかわればいいのだろう。
まずは相手の発言に振り回されず自分がどうするかを決めて、行動を自分が納得できる方向に一本化して進むことの繰り返しだと思う。
ただし相手が自分に何を希望しているかを知っておくことは必要だ。」
と海原先生は、述べられているのであります。
私なども、これはつくづく思い当たります。
禅の老師などという方は、それこそ「ダブルバインド」は当たり前でありました。
私もはじめの頃こそ戸惑ったものですが、そんな世界に四十年来身を置いていますので、もうすっかり当たり前のように受けとめていたことに思い当たりました。
丁寧にお茶をいれようとしていると、そんな丁寧にするよりも、サッサとお茶をいれて出すのだと叱られます。
では、サッサといれて出すと、丁寧にいれてないから、お茶がまずいと叱られます。
中国の唐代の禅僧薬山禅師が、その師石頭禅師に参禅されたときに、
「恁麼(いんも)も也た得ず、不恁麼も也た得ず。恁麼不恁麼総に得ず」と問い詰められました。
恁麼というのは、「こうである」という肯定です。
不恁麼というのは、「そうではない」という否定です。
「こうだといっても駄目だし、こうでないといっても駄目だ」というのです。
こうであると言って駄目なら、こうでないことになるはずですが、それも駄目だというのです。
これも「ダブルバインド」でありましょうか。
このように問われて、薬山禅師もなんとも返答のしようがなかったというのです。
もっともこのような禅問答は、単に相手を困らせる為ではありません。
決して「ダブルバインド」がいいと言っているのではありません。
どういう意図があるのでしょうか。
久松真一先生の示された基本的公案というのを思い起こします。
長年公案禅を参究された久松先生は、
「どうしてもいけないとすればどうするか」という公案を示されたというのです。
『FAS禅その三-基本的公案について』という藤吉慈海先生の論文を拝見すると、
「「どうしてもいけない」というのは絶対否定を意味し、それは論理的な否定ではなく、大死一番というような、主体的な絶対否定のことである。」
と指摘されています。
我見我慢、自我意識を中心としてものの見方を完全に否定して、真の自己に目覚めさせる為の方法なのであります。
こういう高次元の禅の指導を、まだそんな探求にまで到っていない者に求めてしまって、いきなりダブルバインドを行うようなことは論外であります。
私なども長年ダブルバインドなど身に染みついていますので、若い修行僧の指導に注意しなければと思っています。
久松先生は、そのように大死一番、即ち自己否定の末に、再び蘇って、大いなる願いに生きることを説かれているのです。
自分中心のわがままな欲望から、大いなる願いに転換してゆくのです。
そのために、一度自己を否定するのが禅問答なのです。
久松先生が説かれた「人類の誓い」を久しぶりに読み直してみました。
「人類の誓い
わたくしたちはよくおちついて本当の自己にめざめ、
あわれみ深いこころをもった人間となり、
各自の使命に従ってそのもちまえを生かし、
個人や社会の悩みとそのみなもとを探り、
歴史の進むべきただしい方向をみきわめ」
と続いているのです。
最後には、「誓って人類解放の悲願をなしとげ、真実にして幸福なる世界を建設しましょう。」と終わっています。
素晴らしい願いであって今の世にも大いに活きるものだと感銘を受けました。
こういう大いなる誓願に生きるためには、一度わがままを否定しなければならないと説くのであります。
それと同事に新聞記事を読みながら、禅問答と混同して、日常の「ダブルバインド」を起こさないように気を付けないといけないと思います。
横田南嶺