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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.07.01
今日の言葉

禅の大慈大悲

昨年刊行した『鈴木大拙一日一言』に次の言葉があります。

「昔、円覚寺の住職に誠拙という人がいたことがある。

この和尚がはじめて円覚寺にきたころは、円覚寺は鎌倉近在の人びとのバクチの中心になっていたという。

このバクチ場化してしまっている寺を、どうやってまともなものにするのかと人にたずねられたとき、誠拙和尚は、

『わしもいっしょにバクチをしよう』

と答えたという。

こんなふうに、仏教の『大慈、大悲』は、地獄におちている人間を救うためには、いっしょに地獄までおちていくのだ。

ところが、キリスト教では、悪い者はどこまでも悪いとして正面から攻撃する、血なまぐさい征服までやってのける」
(『鈴木大拙随聞記』より)

この誠拙禅師という方は、1745年に生まれ1820年にお亡くなりになった、江戸時代後期に活躍された方です。

円覚寺にとっては中興の祖と仰がれる方であります。

誠拙禅師は、四国の宇和島のご出身です。

鍛冶屋の生まれだそうですが、三歳の時に父に死に別れます。母はまもなく再婚して、新しい夫との間に子供も出来ます。

そうして誠拙禅師は七歳で宇和島の仏海寺の霊印不昧禅師について出家します。

なかなか言うことの聞かぬ、気の強い小僧だったようです。 

宇和島の藩主が仏海寺に立ち寄られて、まだ幼い誠拙禅師に肩を叩かせました。

その褒美に、今度江戸に行ったら土産に何か買ってきてあげようと約束しました。

ところが江戸から帰った藩主がまた仏海寺に立ち寄ると、誠拙禅師が土産を催促しました。

「うっかり忘れた」という藩主に、「武士のくせにうそをいう」と言って、藩主の頭を拳で打ったそうです。

藩主も度量のある方で、却って誠拙禅師を褒められたようです。

そんな気性の激しさが、円覚寺再興という大事業を成し遂げるもとにあったのだと思います。

若くして行脚という修行の旅にでて、二十歳の頃に横浜の宝林寺にあった東輝庵というところで、月船禅師について修行しました。

当時、師の月船禅師は六十三歳でした。

そこで、厳しい修行に励みます。

ようやく修行もできあがる頃、二十七歳の時に、円覚寺から要請があって、鎌倉に赴くようになります。

大拙先生の言葉は、その頃の話なのです。

当時の禅界の状況はというと、江戸時代の中期から後期にかけて、円覚寺もふくめて宗風沈滞の時期でありました。

もともと円覚寺のような大本山は、その全体が修行道場でした。

今でも残っている選仏場が、皆が坐禅する禅堂だったのでした。

山内に住む僧は、皆毎晩禅堂で坐禅し、住持の説法を拝聴し、問答商量していたのでした。

ところが『円覚寺史』の中で、玉村竹二先生が「口碑によると」と断りながらも、

「円覚寺山内の諸僧が、どてらを着て、博奕にふけっていたというが、まさかそれがそのまま事実とは思えないが…」と記されているようなこともあったのでありましょう。

当時そんな円覚寺の中で、何とか宗風を復古させようという気運が起こっていました。

山内すべてを修行道場にすることは無理でも、せめて円覚寺一番の聖地であり、舎利殿開山堂をいただく正続院だけでも修行道場として復興させようと努力していました。

そこでもっとも大切なのはその指導者を得ることです。

僧堂を復興して宗風を挽回してゆくその任に堪える指導者が何としてでも必要でした。

その白羽の矢が立ったのが、その頃円覚寺末寺にあたる宝林寺内の東輝庵にいた青年僧誠拙禅師その人でした。

当時まだ弱冠二十七歳でした。

その若き僧に円覚寺の将来が託されました。

誠拙禅師が円覚寺に移られた頃の様子が次のように語り継がれています。

『禅文化60誠拙禅師特集』号に朝比奈宗源老師が生き生きとした文章で書かれていますので、引用してみます。

「また、誠拙さんが月船老師の印可をうけて後、円覚寺から、どなたか将来円覚寺の中心となって衰微しきったこの寺の再興をするような有為な人物をご推薦願いたいと申入れたのに対し、月船老師は誠拙さんを推し、その大任を命じた。

こんなことを書くのはつらいが、その時分の円覚寺は全く綱紀が緩るみ、僧侶の生活も甚しく乱れていた。

いくら偉いといっても漸く二十七歳であった誠拙さんは、その頽廃の甚しさにあきれ、とても自分のような若僧に改革などできないと思われたので、暫くいて東輝庵へ帰り、月船老師に相見して、

「円覚寺の紊乱は聞きしにまさるもの、私のような者に果せる仕事ではございません、帰って参りました」と申上げると、老師はその言葉が聞えなかったような様子で、

「わしはこの人を、見そこないましたかナ」と、

独言のようにいわれた。

わしはこの人ならきっとやりとげるだろうと信じたが、この人はそれだけの根性はない人であったか、わしの眼が狂っていたのかなあという意味である。

これを聞いた誠拙さんはぐっときた。

老師はそれ程自分を信じて下さったのか、それを知らずに仕事が困難だからと、のこのこと帰って来た自分は、なんという腑甲斐ない男か、ううん!と心の中でうなって、ようし!やらずにおくものかと覚悟をきめ、威儀を正して老師に一礼して、ものもいわずに引下がり、玄関に置いてあった袈裟文庫を肩にひっかけ、直ちに円覚寺に引き返した。

それからの誠拙さんは、すすんでその堕落しきった坊さん達の仲間にとけこみ、賭けごとなどをしている時でさえも席をはずさず、煙草盆の火を入れてやったり茶をくんでやったりして和光同塵し、徐々に一山の風規を改め、三十年もの長い間に、伽藍の修理や再建、僧堂の創建、規矩の制定等々から、その門下に優秀の人材を多数打出し、開山仏光国師の再来と呼ばれ、晩年には仏光国師の法孫の開いた京都の天龍、相国の二大寺に招聘されて、それぞれに僧堂を創建したり、さらに南禅その他の諸寺に応請したりして、ひろく天下に化を布かれた」

というのであります。

若い誠拙禅師と師の月船禅師とのやりとりに胸打つものがあります。

そして、円覚寺を復興するのに、お茶くみから行うという下座行に、禅の大慈大悲の現れを見ることができます。

大拙先生が説かれた「いっしょにばくちをしよう」という表現は、多少誇張はあるにせよ、禅の大慈大悲を示そうとしてくれているのであります。

六月二十八日は、その誠拙禅師のご命日でありました。

改めて誠拙禅師のご遺徳をしのんで法要を勤めたのであります。

そんな法要が終わると、もう七月になりました。

 
横田南嶺

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