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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.06.27
今日の言葉

空になるとは

川尻宝岑居士の『坐禅の捷径』を学んでいます。

川尻宝岑と喚んできましたが、どうも「ほうきん」と読むようであります。

宝岑の岑の字が、「しん」と読むので、「ほうしん」だと思っていました。

知人からご指摘をいただいて、調べると「ほうきん」と読んでいたことが分かりました。

その書物のなかに坐禅の方向について述べられています。

なにを目指して坐禅をするのかということです。

まず宝岑居士は、第一に、

「まず、坐禅というものは、精神を静めるためにするものじゃ、というところへ心のむいている人がある。」

と言われます。

それについては、

「精神を治めるということは悪いことではないけれども、禅門の坐禅というものはそれしきに限るものではないのである。

ただ精神を鎮めるの一方向きになっていると、坐禅の時わずかに妄念が治まると、もうそれがよいのじゃと思う。

この思うものが妄識じゃからして、いつまでたってもこの妄識を破ることは出来ぬ。」

というのであります。

少し心が静まったというところで、ああよかったというだけでは十分ではないのです。

それは、

「ただ折々妄念の静かになるだけのことじゃ。」というのです。

それはあたかも、「ちょうど終日借金取りにせめられているものが、夜になって暫時かけとりがとぎれたようなもの。

その時だけは楽になったようじゃが、また翌日になると責めて来る。

そのとぎれた間チョイチョイ息をつくのと同じことで、一生涯正真の楽を得ることは出来ぬ。」

というように借金取りに追われている者が、夜の間だけ、催促が止んでホッとしているだけで、またすぐにさわがしくなってくるのです。

ほんの一時でも心が落ち着いて、それからまたがんばろうというのも悪いことではありません。

しかし、それでは根本的な解決にならないというのです。

それよりも、「空になろう」として坐禅する者もいることに言及されています。

「または空になるのが悟りじゃと思うて、空になろうなろうと方針を向けている者がある。

もっとも仏の経文の中にも「空」という字は方々に出ているのであるが、仏経の「空」には大いに子細のあることじゃ。」

「空」という言葉は、実にいろんな意味があるので、難しいところであります。

宝岑居士は、

「たとえば目の先の虚空が、おれは虚空じゃなどとはけっして思ってはおらぬ。

この思っておらぬのが真の「空」で、空が空を知っているような空がどこにもあるものではない。

人間の仏性もまたそのとおり、おれは仏性じやの真空じやのとけっして思ってはおらぬ。

この思っておらぬのが生れつきの本体じゃ。」

と説かれていて、この「思っておらぬ」ところ、無心、無分別の心がお互いの本心だと説くのであります。

「空」だと思ったら、もう違うのであります。

そして

「この本体からして一切の智恵分別も発明するので、日用万事自由自在が足りてゆくのじゃ。」

この「無分別」の心から、一切の智慧や分別が生じるのです。これが「無分別の分別」なのです。

ところが、我々は分別の知識の上で、「空」というものを概念でとらえようとしてしまいます。

それを宝岑居士は

「妄識の分別でわざわざ空という一物をこしらえて、その偽空をにらみつけて、その上にまた空になろうなろうと心を起こしてゆくのじゃから、ますます妄識はさかんになって、百年立っても真(妄識に対する真識、悟り)に入る期は来りはせぬ。」

と指摘されています。

自分は坐禅して「空」になったという気になったとしても、

宝岑居士は、「催眠術をかけられたようなものじゃ。術をもどせばもとのもくあみ、何にも得るところはないのである。」

と手厳しく指摘されています。

仏にもなりかたまっていらぬもの石仏らを見るにつけても

という和歌を示して、ただ石の仏のように、何も思わぬ、何も感じないというのが真の「空」ではないということを示されています。

「空」というのは、元来は、「空虚、欠如、ふくれあがって内部がうつろ」などのことを言いました。

それは、初期の仏典にも説かれています。

たとえば「自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」と『スッタニパータ1119』にもございますし、

「空虚な家屋に入って心を鎮める」というように『法句経373』にも説かれています。

よく『小空経』に説かれる譬えが示されることがあります。

「この講堂には牛はいない」ということが、「牛についていえば空(欠如)である」というのです。

それから「空」を観察してゆく修行が説かれるようになってきます。

三解脱門といって、空三昧、無相三昧、無願三昧と言います。

大乗仏教では、一切法の空を観じるのが空三昧、一切法の無相を観じるのが無相三昧、一切法に対して求めるところのないのが無願三昧だと説かれているのであります。

お寺の山門というのは、元来「三門」であって、この三解脱門からくるのであります。

龍樹の中観になりますと、「空」は、自性を持たないことであって、縁起することを表すようになってきます。

自性を持たない「無自性」というのは、固有の本質を持たないこと、それ自体では成り立たないであって、それは事物など、お互いの関係性によって成り立つということです。

さて、宝岑居士は、この「空」について、更に具体的に示されています。

「たいがい坐禅をする人が空になろうなろうと心を用いておる。

これが第一間違いじゃ。」と言っておいて、

「空になろうと思っているからいつまでもなれぬので、たとえばここに一碗の飯がある、

この飯をどうかしてなくそうなくそうとにらみつけているうちは、いつまでたってもなくならぬ。

それから智恵をもみ出して、考えれば考えるほどなおなくならぬ。

まだなくならぬ、まだあるとにらみつけているうち、いつか日が暮れてしまうのじゃ。」

という譬えであります。

いくらご飯をにらみつけても「空」にはなりません。

そこで「なくそうともなくなすまいとも思わず、法に従って箸で運んで食ってしまうと、いつの間にかなくなってしまう。」というのです。

「坐禅もそのとおり、空になろう、なろうと、このからだをにらみつけていると、いつまでたってもなくならぬ。

ところを、法に従って一則の公案を提撕(問題としてひっさげて取り組む)して三昧に入って見ると、空になろうともなるまいとも、思わず知らず、いつか自身をも忘じてしまう。」というのであります。

達意的で見事な譬えであります。

ひたすら、公案という問題に取り組んで我を忘れてしまうのであります。

妄念のおこらばおこれと振り捨てて念仏申すが手にて候

という和歌を示されています。

雑念妄想、妄念などに気にせずに、数息観なら呼吸を数えることに没頭するのです。

一つのことに打ちこんでいると、自然と我を忘れて、「空」になっているのです。

先のご飯の譬えがおもしろくて、無心にご飯を食べている様子も、そのまま「空」なのであります。

なるほど、「空」とはそのようなものかと思われたならば、残念、それはもう「空」ではありません。

 
横田南嶺

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