宗教とは?瞑想とは?
有り難いことであります。
『宗教の本性』サブタイトルは、誰が「私」を救うのかとなっています。
オビには、
「死にゆく自分を支えるのはー
神か、仏か、私自身か?
「私は無宗教」と自負する日本人必読!仏教の第一人者による異色の宗教論」
と書かれています。
オビの裏には、
『原始仏教』を題材にした『ゴータマはいかにしてブッダとなったのか』、「宗派の教え」に着目した『大乗仏教』につづく、宗教講義第3段
と書かれています。
そして、オビには全体の構成まで書いてくれています。
プロローグ 宗教とは何か
第一講 多神教からはじまった
第二講 一神教、二元論、そして仏教
第三講 イデオロギーという名の宗教
第四講 「私」が宗教と向き合うとき
第五講 自分で自分を救う教え
第六講 宗教の智慧を磨く
というものであります。
ご丁寧なお手紙を添えてお送りくださって、早速読み進めています。
まだ、第三講が終わったあたり、ちょうど半分ほどしか読んでいません。
失礼な表現になりますが、これが実におもしろいのであります。
こういう切り口、こういう角度から宗教というものを考えていませんでした。
なるほど、宗教とはこういうことであるのかという、実に明晰な理解をすることが出来るのであります。
長年、この宗教の世界に、どっぷりと浸かってきた私のようなものには到底できる物の見方ではありません。
物事を客観的に見るというのは、こういうことだと学ばせてもらっています。
佐々木先生が、ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエルの歴史学者が書いた『サピエンス全史』という本を高く評価されていることは、かねがねうかがっていました。
そのことを講演でもお話になっているのを拝聴したこともございます。
この書物も、第三講までは、この『サピエンス全史』をもとにして宗教とは何か、宗教はなぜこの世に誕生し、その後どのようなプロセスを経て今のような状態になっていったのか、宗教の歴史と個々の宗教の特徴について書かれています。
まず、佐々木先生は、『サピエンス全史』をもとになぜホモ・サピエンスがこれほどまでに文明を発展させ、地上を支配することができたのか説明されています。
なんでも、大きな脳を持ち二足歩行を行う人類種は、サピエンス以外にも多くいたのだそうです。
ネアンデルタール人などもその一つだそうで、ネアンデルタール人は、脳の大きさや身体の強靱さなどでは、サピエンスよりも優れていたそうなのであります。
一対一で闘ったならば、ネアンデルタール人の方が強かったというのです。
サピエンスは、貨幣、帝国、宗教という、ハラリさんの言葉によれば、「実体を伴わない虚構」「共通の神話」を作り出したというのです。
そこから、佐々木先生は、
「虚構を実体であるかのように頭の中で想定し、それを他者と共有できるようになると、同じ世界観・価値観を共通に信じた人々の間に、お互いに協力し合おうという意識が生まれ、集団での行動や作業が可能」となると指摘されているのです。
ハラリさんは、
「これこそがサピエンスの成功のカギだった。一対一で喧嘩をしたら、ネアンデルタール人はおそらくサピエンスを打ち負かしただろう。だが、何百人という規模の争いになったら、ネアンデルタール人にはまったく勝ち目がなかったはずだ。」
というのです。
ネアンデルタール人については、「彼らは虚構を創作する能力を持たなかったので、大人数が効果的に協力できず、急速に変化していく問題に社会的行動を適応させることもできなかった。」と指摘されているのであります。
それに対して、サピエンスは、この虚構を実体であるかのように頭のなかで想定し、それを他者と共有出来るようになって、同じ世界観・価値観を共通に信じ、お互いに協力し合うことができるようになったのでした。
ハラリさんは、
「宗教は、超人的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度」であると定義づけられています。
「超人的な秩序」とは、「人間が生み出したものではない秩序」だと佐々木先生は解説されます。
神さまが生み出した秩序だけではないのです。
仏教は、もともと超越的な神の存在を否定しました。
原因と結果という自然法則のみがこの世を司っているとしたのです。
これが、ハラリさんのいう「超人的な秩序」なのです。
佐々木先生は、次のように説かれています。
「釈迦はまず「縁起の法則」によって、この世界は成り立っていると考えました。
縁起の法則では、すべての事柄や現象は独立して存在しているのではなく、原因があってはじめて結果として現れると考えます。
これは科学でいう因果律と同次元の原理なので、そこには当然のことながら絶対神や霊的な神秘性などといったものは一切介在しません。
続けて釈迦は、すべての事柄や現象は縁起の法則の中で一瞬だけかたちとして現れているに過ぎず、あらゆるものは常に移ろい、変化し続けているととらえました。
「私」という存在も同様です。「私」とか「私のもの」にも実体がなく、さまざまな関係性の中で一時的に存在しているだけで、永遠不変のものではないと考えます。
そして最終的に、釈迦は「人間の苦しみの原因となっているのは欲望(煩悩)」だと説くのです。
佐々木先生は、お釈迦様の教えを、
「縁起の法則を理解し、法則を踏まえたうえで正しい生き方を選択すれば、欲望は消滅し、心の安寧が得られるはずだ」という結論にたどり着いたと説かれています。
なぜ「欲望を苦しみの原因」ととらえのかについては、ハラリさんの書物から引用されています。
「心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマ (釈迦)の悟りだった。
心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。
快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。
したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。
痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。
痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。
だが、快いものを経験したときにさえ、私たちはけっして満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする」(『サピエンス全史』より)
というのです。
実に的確な考察であります。
そのあと、佐々木先生が引用されているハラリさんの説かれた、「渇愛から抜け出すための方法」が見事な解説なのであります。
佐々木先生が、『サピエンス全史』から引用されたのは、
「ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。」
というのであります。
「人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。」
というのです。
更には「じつは、悲しさの中には豊かさもありうる。
喜びを経験しても、その喜びが長続きして強まることを渇愛しなければ、心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。」
と説かれているのです。
ではいったいどうしたらいいのかというと、
「心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか?
どうすれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか?
ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。
この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。」
というのであります。
ブッダの瞑想というのは、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」と説かれた点を、佐々木先生は、「非常に的確な表現で、こんなふうに仏教を説明できる人は、お坊さんでもなかなかいないと思います」と評価されています。
私も一人この本を読んで、欣喜雀躍したのは、この表現を読んだ時なのでした。
この言葉は瞑想の本質をよくついています。
佐々木先生の仰せには、ハラリさんは、ミャンマー出身の瞑想指導者サティア・ナラヤン・ゴエンカさんについて瞑想修行にも励まれたことがあるそうなのです。
多くの場合、人は何かを経験したいと思って瞑想したり修行するのです。
「安らぎ」を求めたい、「悟り」を求めたい、「見性」を求めたいというのです。
それでは既に渇愛から離れてはいないのです。
たとえ得たとしても執着になるか、自慢になるか、新たな苦しみを生み出すのであります。
これは恐らくゴエンカさんに学ばれたヴィパッサナー瞑想がもとになっていると思いますが、禅にも大いに通じます。
何を得ようとする限りは、安心はなく、只今経験していること、即ち只今の呼吸、只今坐っていること、只今歩いていること、只今ご飯をたべていること、只今お茶を飲んでいること、それだけに徹するのであります。
その端的を示そうとしたものが、禅問答にほかならないのです。
ハラリさんの実に的確な指摘をもとにして、佐々木先生は「宗教とは、死を見つめながら生きる宿命を背負った人間だけが罹る「心の病気」を治してくれる薬だ」として、宗教とは何かを説き進めてくれています。
まだまだ半分読んだ処なので、後半を読むのが楽しみなのであります。
横田南嶺