渾沌
その内容を意訳してみます。
南の海を治める帝を儵(しゅく)と言い、北海の帝を忽(こつ)と言いました。
「儵」は、たちまち、はかないことという意味です。
「忽」は、にわか、つかの間という意味です。
中央を治める帝を渾沌と言いました。
渾沌は、なにも分かぬもやもやしたもの、入り乱れた無秩序という意味です。
ある時、儵と忽が、渾沌の治める土地で思いがけず出会いました。
渾沌は儵と忽とを大変手厚くもてなしたのでした。
そこで、儵と忽は、渾沌の好意にどうやってお礼をしたらいいだろうかと相談しました。
「人間は、誰にも七つの竅(あな)が具わっていて、視たり聴いたり、ものを食べたり、息したりしているのに、あの渾沌だけには竅がない。
一つ竅をほってあげようではないか。」ということになりました。
そうして、一日に一つずつ竅をほっていったのですが、七日目に渾沌は死んでしまったのでした。
という話であります。
目も無く、耳も無く、舌も無く、鼻も無ければ、外界を感じることはほとんどできません。
目で物を見て、見分けることもなく、声を聞いて、情報を判断することもなく、鼻で匂いを嗅ぐことも舌で味わうこともないのです。
これが渾沌なのです。
目に二つ、耳に二つ、鼻に二つそして口一つの穴で七つです。
これを全部開けたら、渾沌は死んだのです。
渾沌を『広辞苑』で調べてみると、
「①天地開闢かいびゃくの初め、天地のまだ分かれなかった状態。
②物事の区別・なりゆきのはっきりしないさま。」
という解説があります。
渾沌の状態を、「無分節」とか「無分別」と言います。
無分別は、『広辞苑』にも仏教語して「主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと」と解説されています。
「分節」については、「一つに融合した構造を持ったものが分化して、相互に関連を持つ組織的な構成部分を形成すること。」という説明が『広辞苑』にはございます。
もともとひとつに融合していたものが、目で見たり、耳で聞いたりすることによって、分別して、分けられているのです。
鈴木大拙先生は、
「分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。
……それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち力の世界がそこから開けてくる。」と『東洋的な見方』の中で述べられています。
もともと混沌としてひとつに融合されていたはずの世界が、目で見たり耳に聴いたり、分けて判断することによって、差別が生まれてきたのです。
そこで、時には、本来の無分別、無分節にところに立ち返ることが大切なのであります。
大拙先生は、
この「渾沌」を「今日の無意識に相当する。また東洋の心である。」と指摘されています。
(以下『鈴木大拙全集第二十巻』より引用します)
更に「心はどこに在るかといふと、胸か腹である。頭は身体から離れて存在するともいへるが腹や胸は、内臓全体のことで、つまり人体の主要部である。」と説かれています。
「頭は、目や鼻、耳などのあるところで、知的官能の所在地ゆえ、抽象的な付属物と見られぬこともない。」と説かれています。
目も耳も鼻も舌もみんな頭部にあるものです。
ここで分別してしまっているのです。
更に、
「「胸がびくびくする」とか、「お腹がひっくり返る」とか、「はらはらする」とか、「腸が九回する」とか「寸断する」とかいふときは、個人の全存在が強迫感に侵されたときである。
それゆえ、「腹」で全身体を象徴させてもよいわけだ。すなはち「腹の出来た人」とは、「人格者」「人間として成熟した境域」だと見てよい。」
と説かれていて、腹で見る、腹で感じるということは、分別せずに「無分節」なる世界をそのままに感じることだというのです。
そして、
「西洋人は物の別れてゆくところから見るに敏捷で、今日の文明文化はそこから出発し、発展したもの、世界はそれで風靡されているが、それだけでは自滅の域に突進するよりほかない。」
と警鐘を鳴らしています。
「西洋人は腹をわすれ、物の未分性に徹底せず、混沌を殺すことのみに汲々として、混沌をそのままにしてしかも十分のはたらきを怠りがちにする。
東洋文化の根底には、天地未分以前、論理や哲学の出来ぬ先の一物があって、そうしてそれを意識してきたというところ、これを忘れてはならぬ。
これが今日の世界を救う大福音である。今の日本人は、若い者もかなりの年の人々さえも忘れている。実は日本人や東洋だけの話ではないのだ。」
こんな言葉が発せられてから、もう何十年も過ぎています。
東洋人とても、分別することばかり、比べることばかり、競争することばかりに追われています。
これは渾沌を殺すことにほかならないのです。
ここに大きな苦しみが生まれます。
そうかといって、渾沌に帰ってしまってそれでいいというのではありません。
渾沌をそのままに温存しておこうというのが、『荘子』の考えるところです。
しかし禅はそれに止まるのではありません。
大拙先生が「混沌をそのままにしてしかも十分のはたらき」と説かれているように、禅では、一度は、目や耳が外界のものばかりを追いかけるのをやめて、見聞覚知のはたらきを一点に集中させて、混沌そのものを体感し体得させておいて、さらに混沌を混沌のままに自在にはたらかせるという世界を求めているのであります。
これが「無分別の分別」なのであります。
分別することが、「渾沌」を殺してしまって、苦しみを生みます。
無分別の世界、「渾沌」をそのままにしておこうというのが荘子の考えです。
渾沌をそのままにしてしかも、この現実の差別の世界で自由自在にはたらいていこうというのが禅の立場なのであります。
まずは、目でものを見たり、耳できくことをやめて静かに坐って、渾沌の世界に浸って、その平等の世界を基盤にして、現実の問題に応対していくのであります。
坂村真民先生は、毎朝暁天の未明に、祈りを捧げてこの渾沌の世界を体感されて詩を作っておられました。
毎日の暮らしの中で、朝わずかな時間でも、渾沌の世界に触れる一時を大切したいものです。
横田南嶺