すべてを放ってこそ
修行僧共々学ばせてもらっています。
「ただ坐る」というだけのことですが、何十年行っていても、まだまだ足らないところばかりで、学ぶたび毎に深まるものであります。
佐々木奘堂さんは、「造作無し」ということを徹底して説いてくださっています。
奘堂さんは、岡田式静坐法をはじめ、身体技法なども様々学んで来られた末に、そのような「造作」では、到底真に腰を立てるはできないことに気がつかれました。
到り得た結論は、「すべてを放って、ただ起き上がるぞ」という時にこそ、腰は立つというものです。
あれこれ、頭で調整しようとしても、益々遠ざかるものです。
チベットの人たちが行っている五体投地のように、大地に全身をひれ伏して、そこから、ただ起き上がるときに、スッと腰が自然に立つのです。
その時にこそ、自然に丹田も充実するものです。
これはなるほど単純にして明解なのです。
これが、本来もって生まれた生命の力を最大限に発揮する道でもあります。
いつもながら、奘堂さんの熱意あふれる講義に、修行僧共々感動しながら受講していました。
それに対して、藤田一照さんは、いつもいろんな身体技法などを教えてくださいます。
修行僧達にとっては、どちらも新鮮に受けとめられるようで、奘堂さんの熱意あふれる指導も、一照さんの懇切な指導も、同じように柔軟に学んでいます。
決して相対立するものとは受けとめていないようです。
こういう柔軟さが大切だと思っています。
一照さんは、「造作」は「自然」に相対立するものと説明されました。
「造作」の無い「無造作」が自然なのです。
そこで一照さんは、その「自然」を稽古するのだと説かれました。
岡田式静坐法を親切に教えてくれました。
私も岡田式を研究してきましたが、実際に実習したことがなかったので、なるほどこのように坐るのかと腑に落ちました。
更に、野口整体で説かれている、「邪気吐出法」「正気吸入法」「脊椎行気法」というのを教わって実習しました。
これなどは、白隠禅師の説かれた呼吸法に通じるものがあります。
平林寺に住されていた白水敬山老師という方は、禅定を大切にされて、丹田を練ることの重要さを説かれていました。
入る息に、天地の霊気を吸い込み、吐く息に体内の悪気を吐き出してしまう気持ちで呼吸するというのであります。
白隠禅師は、気を丹田気海の間に凝らしむることを力説されました。
ただ敬山老師も無理に力んではいけないと説いていまして、やはり正しく坐って無理なく行うことが肝要であります。
一照さんは、「正しくないことをやめれば、正しいことが現れる」というアレクサンダーテクニークの理論を紹介されて、造作をやめないと無造作、即ち自然が現れないのだと説明してくれました。
造作は、自我の強化になってしまうというのです。
これは気を付けないと、長く修行している者ほど、自我が増大してしまいかねないのです。
自我が理性と意志の力で、自分自身を完全に制御しようと努めることが「造作」だという説明もなされました。
こういう「造作」こそを修行だと思い込んでしまう場合も多いのです。
注意すべきであります。
そして、いつも引用してくださる、道元禅師の
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、ほとけとなる」という『正法眼蔵 生死』の言葉を引用して、仏のいえへなげいれる、放ち忘れることを説いてくださいました。
すべてを放つ、これこそが共通するのであります。
禅の修行は、これという到達点があって、そこに到って終わりというものではありません。
まずお互いの身体も日々変化するものです。
今日一日、今日一日と、昨日までのものを放ち去って、また新たなる求道が始まります。
これでいいと思ってもまた、これではいかぬと思い、永遠に求め続ける営みであります。
禅の歴史を見ても、馬祖道一禅師が、一切の造作無し、ただ平常であれと説かれました。
そのあとまたすぐに、造作の無い、平常のままに安住していてはいけないと説く祖師が現れました。
そのような流れから、公案の工夫の修行が説かれるようになってきました。
現在に到る臨済の禅の主流となっています。
そんなかで、日本で盤珪禅師が、不生の仏心のままで暮らしなさいと説かれました。
公案の工夫などは造作なことだ説いたのでした。
更にまた盤珪禅師のあとに、白隠禅師は、そんなところに尻据えてはならぬと説かれました。
大いに公案を工夫せよと力説され、気海丹田に気を満たしめよと策励されたのでした。
このように、定点に静まりかえっているのが禅ではないのです。
常に動き続けているのです。
それはまさに、小川隆先生が説かれたように「永遠の運動」なのです。
だからおもしろいし、楽しいし、日々新たなのであります。
常にすべてを放ってこそ、そのたびごとに、まっさらな気持ちで学び続けることができるのであります。
横田南嶺