わすれても
そんな川柳を見たような気がしています。
そうならないようにと思いながらも、私も気がついてみると、あの書類がどこにいったやら、あの本をどこに置いたのやらと探していることがあります。
そのうちに
さがしもの何だったかがわからない
という川柳のようにならないように気をつけないといけません。
さがしものしてたら別のものがでてき
という川柳もありまして、思い当たるものであります。
探しているうちに別の物がでてきて、嬉しく思うあまりに、もともと探していたものを忘れてしまうのであります。
人生の半分はものさがしてる
という川柳もあります。
お互いの人生は、何かを探し求めてゆく営みなのかもしれません。
若い頃には、夢や希望を探し求めるのでしょう。
ひと頃「自分探し」ということがよく言われていました。
人生は自分探しと心意気
という川柳がありました。
確かに仏教でも、お釈迦様が、若者に自己を探し求めることの大切さを説かれています。
これはお釈迦様が鹿野園で初めてのお説法をなさってからしばらくした頃の話です。
お釈迦様がただひとりで、森に入って、樹の下で瞑想していたのでした。
すると若者たちが、なにか、あわてふためいて、森の中を右往左往していました。
お釈迦様がそこに坐っているのを見つけると、いきなり、
「こっちに、ひとり、女性が逃げてこなかったでしょうか。」
と聞きました。
若者達が森で遊んでいて、その女性に財物を盗まれたというのでした。
そのときお釈迦様は言いました。
「若者たちよ、君たちは、逃げた女性を探し求めることと、おのれ自身を探し求めることと、どっちが大事だろうか。」と。
われを忘れて遊び、われを忘れて女性を探していた若者達は、そう問われて、はっとしました。
そして
「それは、もちろん、自分を探し出すほうが、大事なことです。」
と答えたのでした。
そこでお釈迦様は彼らに言いました。
「若者たちよ、では、みんな、そこに坐るがよい。わたしが、いま、おのれ自身を探しだすことを教えてあげよう。」
というお話であります。
自己を探し求めることは大切なことですが、それをどこか遠くに探そうとするとすれ違ってしまいます。
これも川柳に
旅に出て自分さがすって意味不明
というのがありました。
そのようにいくら外に向かって旅をしてみたところで
見つかった自分探しのためしなし
ということになってしまいます。
果ては、
自分探し きがつきゃ自分見失い
という川柳のようにもなりかねません。
これも川柳ですが
真夜中に自分探しの母さがす
というようになってしまうと深刻なことであります。
今のところは、少しの探しものくらいで済んでいる私でありますが、これからどうなるかは分かりません。
このところは、
一日の大半返事書いている
という状況が多いのです。
有り難いことに、毎日のラジオを聞いて下さる方が大勢いらっしゃるようで、お礼のお手紙を下さります。
その返事を書いている時間が増えてきました。
ご無沙汰している知人が、ラジオを聞いて手紙を下さったり、初めての方がお礼を言ってくださったりしています。
知人の手紙は、こんな事が書かれていました。
その方のお知り合いの方の話であります。
バス停でうずくまっている年配の女性がいて、介抱してあげたのですが、あまりにも具合が悪そうだったので、救急車を呼ばれました。
よいことをしてあげたと思っていたそうですが、後日電話が入って、その女性がコロナに感染していたとのこと、すぐに検査を受けて欲しいというのでした。
検査を受けると陽性で、高熱が出て二週間の入院となったそうなのです。
親切にしたつもりが、どんなことになるか分かりません。
という方の話を聞いてしばらくして、手紙を下さった方が、散歩していると、交差点でうずくまる女性を見つけました。
朝早い時間だったらしいのですが、車にひかれてしまいそうなので、抱えて歩道に誘導しました。
足元は何も履いていなかったそうで、認知症かと思い警察を呼んで保護してもらったというのです。
先の介抱した女性がコロナ患者だったという話を聞いたところだったので、心配したけれどもだいじょうぶだったということでした。
コロナはどこに潜んでいるか分からないと思わせるのと、認知症の問題も考えさせられる話でありました。
何も分からなくなってしまって、外に出掛けてしまうその女性のことを思うとたいへんだなと思います。
その手紙をいただいた同じ日に、絵本を送ってくださった方がいました。
その本が、なんと認知症のことを書いたものでした。
題が
「いつか あなたを わすれても」
というのです。
これはとても良い本です。深い内容であります。
お手紙を下さった方のお知り合いの方が書かれたというので、送ってくれたのでした。
幼い女の子のおばあさんが認知症になってゆくのです。
はじめは、おばあさんは「ちかごろとても わすれん坊です」というところから始まります。
おばあさんは、その子の母の名前を忘れてしまいます。
母と一緒におばあさんに会いに行くと、おばあさんは、孫を我が娘と思って話しかけ、実の娘には
「あなた ごしんせつなかたね ありがとうございます」
と言うのでした。
母も「いいえ どういたしまして」と答えています。
その母もやがて娘のことを忘れてしまう日がくるかもしれない、けれども、
「これは たいせつな たいせつな わたしたちの じゅんばん」
と絵本には書かれています。
そして安らかに眠るおばあさんの絵に
このおばあさんが
「みんなことをわすれる日は
わたしたちとのおわかれを
こわがらずに かなしまずに すむ日」
と書かれています。
そして、そのお嬢さんは母と共に
「いつか わすれてしまうじかんを
たいせつにすごす」
「ながい ながい
さよならの じゅんびをする」
という言葉で物語は終わっています。
忘れていくことが悪いことでないという物の見方であります。
人は、誰しも忘れたくて忘れるわけでは
ないのであります。
やむなくたどる道なのです。
そしてまた、なにもかも忘れていくということは、禅の立場でいうと、「無分別の世界」に帰ってゆくということと言えるのかも知れません。
そんないただいた絵本を読んで、これからは忘れたものが増えるたびに、深刻に考えずに、「無分別の世界」に近づいたと思うことにしましょう。
横田南嶺