改めて祈ること
その稀なことが、先日おきまして、都内まで葬儀に出掛けてきました。
お亡くなりになった方は、既に九十代でありました。
かつて、その方のご母堂の葬儀にも出たことがありました。
この時は、私が僧堂の師家になる直前のことであり、よく覚えています。
修行僧でしたが、僧堂の代表として葬儀を務めたのでした。
円覚寺本山のお檀家でありましたので、その時には宗務総長が導師を勤め、本山の和尚と僧堂を代表して私と三人でお勤めしたのでした。
私は修行僧として勤めた最後の葬儀と言ってよいものでありました。
二十三年前になります。
今回の喪主の方も、その当時のことをよく覚えてくださっていて有り難く思いました。
コロナ禍のこととて、葬儀なども大きく変わりました。
まず少人数になりました。
今回も、お身内の方がほとんどでありました。
それでも皆で心をこめて、亡き人をお見送りすることは、大事なことだとしみじみ思いました。
故人の棺を囲んで、奥様とご子息や御孫さんたちが、口々に感謝の言葉を述べ、一心に手を合わせてご冥福をお祈りする姿は、尊いものであります。
半日かけて、葬儀を勤めて鎌倉に帰ってきますと、臨済会から『法光』という小冊子が届いていました。
今回の『法光』うらぼん号の巻頭は、向嶽寺派管長の宮本大峰老師が、「祈るということ」という題で書いて下さっていました。
宮本老師は、私ども関東の禅林を代表する本格的な禅僧でいらっしゃいます。
真実発心されて、曹洞宗と臨済宗と厳しい修行道場を歴参された、稀有な老師でいらっしゃいます。
私も心からご尊敬申し上げる老師であります。
すでに八十歳を越えていらっしゃいますが、今も矍鑠とされています。
そのように、厳しい修行をたたき上げるようになさってきた老師が、このたび「祈り」について書いてくださって、私も拝読して心が熱くなりました。
私程度の者が、「祈り」の大切さを説くよりも、宮本老師のような本格的禅僧が説いて下さると、説得力があります。
老師は、
「今はワクチンや治療薬の創薬に期待の心が向き、祈るという感覚は乏しくなったように思います」
と懸念されています。
そして、
「勿論祈るだけで病気が治るわけではありません。
しかし、素直に一心に祈ることで自分の心を調えることができます。
自分の心が調えられることで病気や感染症に対する立ち向かい方が変わってくるのだと思います。
その先には、感染者に対しての差別的な発言、偏見的な視線や、村八分にするなどといった痛ましい感覚がなくなって祈りと一体化するのだと思います。」
と説かれて、
「祈ることで心を調え、本来の姿勢を見直すことに繋がるのだと思います」
と書いて下さっています。
その後に、老師は「ヨゲンノトリ」について言及されています。
私は恥ずかしながら、この「ヨゲンノトリ」については存じ上げませんでした。
江戸時代後期に加賀国に「ヨゲンノトリ」が出現したというのです。
黒と白の頭をもつ不思議な鳥だそうです。
宮本老師の文章の後に、「ヨゲンノトリ」について、山梨県立博物館学芸課の中野賢治先生が書かれています。
老師の文と、中野先生の文と二つに同じ話題が載るもの珍しいと思いました。
安政五年の七月から九月にかけて江戸をはじめ各地でコレラが大流行して多くの人が亡くなったそうです。
その前に加賀でヨゲンノトリが現れて、病気の流行と多くの人が亡くなることを予言したのだそうです。
さらにそのヨゲンノトリは、我等の姿を朝と夕に拝めば必ず災難を逃れることができるであろうと語ったということでした。
中野先生もまた
「近代的な医学の知識がない当時の人たちにとって、病気の時に頼るべきは、医者と神仏の力でありました。
医者がコレラに対して無力であったこともあり、人々は神仏や、目に見えないものの力を頼るようになります。」
と書かれています。
人々の素朴な信仰であります。
宮本老師は、その素朴な信仰から更に深めて、
「現状で私たちになす術がないのであれば、やはり真剣に祈るしかありません。
真剣に祈るということを突き詰めれば、無我になって祈ることに繋がります。
無我になって祈ることでさまざまなことを受け入れる心ができてまいります。
今日のように目に見えないものと対峙して、打つ手が無い時には、ああするべきだ、こうするべきだと説くよりも、改めて祈ることが大切であると感じています。
祈るしかないと素直に受け止めて真剣に祈る心、ひとりではなく共に祈っていく心が自分自身と世の中を少しずつ変えていくと信じています。」
と説いて下さっています。
力強いお言葉に、私自身が深く感動して、そして多くの皆さまにもご紹介したいと思いました。
祈ることが無我につながるのです。
何となれば、自分の無力なことに徹底気づかされるからなのです。
自分の力などゼロになって、ただ一心に手を合わすのです。
無我の祈りであります。
この無我に徹してこそ、老師が説かれるように、様々な身に降りかかることを受け入れ、力強く生きてゆこうという気力が湧いてくるのであります。
葬儀から帰って、宮本大峰老師の有り難い玉稿を『法光』誌で拝読して、心から感謝しています。
横田南嶺