平常心とは?
その摂心に入る前に、緊急事態宣言が出ている京都まで出掛けて、花園大学の授業をしてきました。
大学からは、リモートでもと言ってくださっていましたが、やはり現場に行って、生の声でないと伝わらないものがあると思って出掛けたのでした。
花園大学の総長に就任してから、早くも四年になります。
総長というのは、大学の象徴ということになっています。
実務は学長や学園長が行ってくれますので、臨済禅を建学の精神とする大学の象徴なのです。
象徴などというとたいそうな役のようです。
はじめは入学式と卒業式に出て挨拶をすればいいのかなと思っていたのですが、就任に際して理事長からは、入学式や卒業式は無理して出なくてもいいので、たとえ年に何回かであっても、学生に話をしてあげて欲しいと頼まれたのでした。
それならばということで、大学の前期三回、後期三回と年に六回だけの講義をさせてもらっています。
当初は、公開講座で、多くの方々が聴講に見えてくれていました。
教堂という大きなホールを使っていたのですが、いつも満席で補助椅子も使い、更に二階席まで使うほど、有り難いことに盛況だったのでした。
それがコロナ禍で大きく変わりました。
ただいま大学には、外部の人が聴講にくることは、基本的にできなようになっています。
公開講座ではなくなりました。
学生だけであります。
しかも感染対策のために、更に広い大講義室を使っていました。
五百名入る大講義室に、百名足らずの学生さんだけですので、ガラガラの状態で行っていました。
五月には、今年度初めて私は登校したのですが、更に学生が少なくなっていたのでした。
なんでも百名を越える講義は、半分はリモートにして、所謂ハイブリッドで行うという指導があるそうなのです。
そこで、今回は、五百名収容の講義室に、五十名足らずの学生さんが入っているだけなのであります。
実に換気の良い環境でした。
僭越ながら、今までどこでも満員御礼に慣れてきた私には、複雑な思いであります。
それでも、何か学生さんたちに伝えたいと思ってお話してきました。
以前小欄にも書いた、誰しも仏さまの心を持つということを話しました。
様々な譬えも紹介しました。
汚物の中の金のようなものだとか、ボロ布をまとった仏像のようなものだという譬えです。
そのように、私たちの煩悩や妄想という汚れた心に、綺麗な仏さまの心が具わっているのだという教えであります。
そうしますと、私たちの心から、汚れた不純なものを取り除けば、綺麗な仏さまの心が現れると思われます。
汚れたぼろ布を取り除けば、綺麗な仏像が出てくるようなものです。
こういう教えは分かりやすいものです。
そのような煩悩などの汚れを取り除くのが修行だということになります。
しかし、私たちの禅の教えは、そんな考えの否定から始まったのでした。
そのことを講義でも話をしたのでした。
「平常心」ということばがあります。
『広辞苑』をみますと、「普段どおりに平静である心」という説明があり、「平常心を保つ」という用例も示されています。
これは一般にもよく使われます。
どんな状況でも、緊張したり動揺したりせずに平常心を保つということが大事だと説かれるのであります。
スポーツの選手などでも、そうです。
「平常心を保ちました」などと言われます。
いつもと変わらないように普段通りできたということでしょう。
しかし、禅でもともと説いていた平常心というのは、それとは異なる意味であります。
『広辞苑』には「びょうじょうしん」という読みもあって、こちらには「禅で用いる語」という説明があります。
さらに「平常心是道」という禅語を、正しく「びょうじょうしんこれどう」と読んで、「禅語。日常にはたらく心のあり方がそのまま悟りだということ。馬祖道一の言葉」と解説されています。
日常にはたらく心のあり方がそのまま悟りだというのです。
そこで具体的に私自身の話をしました。
何回話をしても普段取り平常心(へいじょうしん)とはいかないのだということです。
今日も鎌倉から授業に来て、教室に入ると、あまりにガラガラなので、教室を間違ったかなと思ったのだということ。
人前で何度話しても緊張するということ。
緊張しないことが平常心だと思われるかもしれませんが、そうはいきません。
人前で話すのは緊張します。
その日も、わざわざ学長さんが講義を聴いてくれていました。
学長さんは、今年度から新たに就任してくださった方でいらっしゃいます。
学長さんが聴いてくださっているとそれだけでも緊張するのです。
更にマスクをして講義をするので、息苦しい、メガネは曇るし、暑いしたいへんだといろんなことを思います。
このありのままの心がそのまま真実だと説くのが、馬祖禅師の説かれた「平常心(びょうじょうしん)」なのです。
これは実に良い教えなのです。
緊張しないように、普段通りにしようなどと思えば思うほど、うまくゆかないのです。
緊張するのが当たり前だ、それでいいのだと思った方が楽になるのです。
馬祖禅師が説かれた「平常心」というのは、「造作無く、取捨無し」と説かれているものなのです。
わざわざ「平常心(へいじょうしん)を保つ」ようになどという、つくろい事をしないのです。作りごとをしないのです。
乱れた心を捨てて、静かな心を得ようなどとしないのです。
迷いを捨てて悟りを得ようなどとしないのです。
ですから、学長さんが聴いていて緊張するし、マスクは苦しくたいへんだという、そのままでいいのだと思って講義をしているのですとお話したのです。
この「平常心(びょうじょうしん」」の教えは、自己肯定につながり大きな力を生み出します。
しかしながら、「このままでいい」というところに安住してしまって、何の努力も修行もしなくなってしまうと問題になってしまいます。
馬祖禅師の弟子たちから、そのままではいいというのは問題ということが説かれるようになりました。
このままでいいのだという自己肯定と、これではまだいけないという自己否定とがうまく車の両輪のように、相俟って道を進むことができれば一番理想だと思います。
平常心を保つ努力も大事でしょうが、本来の「平常心」の意味も大切にしたいものです。
横田南嶺