怒りをどうする
円覚寺もいくつかの企業の新入社員の研修を受けつけています。
昨年の春は、さすがにすべて中止となってしまいましたが、今年の春は、オンラインで研修を行うところがあったり、実際に円覚寺に来て研修を行ったりと、それぞれございます。
昨年の春よりは、活動が始まっていると感じています。
先日とある企業の研修を、オンラインで行いました。
Zoomという機能を用いて講義をしました。
こういうコロナでもなければ、Zoomなどというものとは無縁の暮らしをしていたと思いますが、この頃はすっかり馴れてしまって、Zoomで講義を行いました。
新入社員向けには、分かりやすく、体と心を調える方法について、講義をしました。
特にコロナ禍でありますので、いつもお話している獲得免疫と自己免疫の話から、獲得免疫のワクチンがまだしばらく時間がかかりそうなので、自己免疫をしっかりあげておくしかないことなどを話しました。
そうして、調五事を説いたのでした。
これもいつも話をしていることですが、
調食=食事を調える
調眠=睡眠を調える
調身=姿勢を調える
調息=呼吸を調える
調心=心を調える
の五つについて順を追って説明しました。
これだけの話をしても十分時間がかかります。
少しばかり早めに終わって、質問を受けてみました。
何人かの質問がありました。
その中で、怒りが湧いた時にどうしたらいいのですかという質問がありました。
こういう質問があると、お互いに深く問題を掘り下げることが出来るのでありがたいことであります。
そう聞かれて、まず私自身のことを思うと、このところ怒ったことがないというのに気がつきました。
いつ怒ったのか記憶がたどれません。
どうして、そのようになったのか考えてみました。
私は、ずっと前管長にお仕えしてきました。
それが三十年の長きに亘りました。
前管長は、いつも怒っている方でありました。
「怒り」が原動力の方でありました。
そのお側にずっといましたので、とにかく、その怒りの雷を直撃で受けないように、上手に身をかわしながら、お仕えしていました。
直撃をくらってはたいへんなことになります。
長年お仕えしていると、どういう時に、どういう方向を雷が落ちるかが、だいたい検討がつきますので、上手に方向転換をしておくようにしてきました。
それでも、稀に読み違えて、近距離に雷が落ちたり、かすったりしたことがあったものであります。
今にして思えば、皆懐かしい思い出であります。
前管長は、今の社会に対して、僧侶のあり方に対して、円覚寺のあり方に対して、修行僧に対して、常に怒っている方でありました。
これは、何とかしたいという熱い思いであり、慈悲心でもあります。
有り難いことであります。
しかしながら、私はそのお側に三十年もいましたので、怒らなくなってしまいました。
何があっても、そんなに怒っても仕方がないと思うのであります。
そこで質問してくれた方に、そのような私の心境を話して、あまり過度に怒っても仕方がありませんと伝えました。
私は、そこで更に、青年に何に腹が立つのですかとうかがいました。
すると、「不条理に対してです」という答えでした。
不条理に対して腹を立てるというのは、悪いことではありません。
悲憤慷慨という言葉もあります。
悲憤慷慨は、「思うようにならない世の中や自分の身の上に対して、悲しみいきどおり嘆くこと。」と『広辞苑』には説明があります。
世のあり方に悲憤慷慨した人たちが、新しい時代を切り開いてきたのが、歴史であります。
しかし憤り過ぎては空回りしてしまいます。
世の中は、まず不条理だと思うことですと申し上げました。
それから、私がお世話になった方の戦前戦後の体験などの話をして差し上げました。
これは、「不平等の中で」という題で既に書いていることであります。
そんな不条理の中で生きなければならないのがお互いの人生であります。
ただその不条理に憤って、自暴自棄になったり、自堕落になってしまってはもったいないことです。
それでも、「不平等の中で」で語っているように、私の師匠の小池心叟老師や、お世話になった方などは、
不平を言わずに正直に努力をして、小池老師は戦災からお寺を復興され、もう一方も新しい店を起こされて立派に生涯を全うされました。
不条理に憤っても、その憤りをどういう方向に向けるかが問題ですと話しました。
そんな話をして、怒りも大切なエネルギーだという話をしました。
たとえば、火山というのは大きなエネルギーを持っています。
これは爆発させると火山の噴火になって、まわりに大きな被害がでます。
しかし、これを上手に使えば温泉になって、多くの人が温まることができます。
世の不条理に悲憤慷慨することは、悪いことではありません。
上手にその力を、よい方向へと働かせてゆくようにしましょうと伝えたのでした。
横田南嶺