ありのままでは……
修行僧たちと共に、学ばせていただきました。
奘堂さんは、坐禅について実に熱心に探究し続けておられます。
その熱意には、いつも感服しています。
飽くなき探究心、求道心のかたまりのような方であります。
檀家もないお寺で、坐禅一すじに生きておられる方です。
そんな方の講義を通して、坐禅についてはもちろんのこと、その熱意に触れて、修行僧たちにも何かを感じてもらいたいと思っています。
ことに奘堂さんは、ギリシャの彫刻に造詣が深くて、パルテノン神殿にある、ディオニソス像がもっとも優れていると仰っています。
なかなか実物を見ないことには、本当の迫力は伝わらないのだと思いますものの、私も何度もお話をうかがってきて、だいぶ理解できるようになってきました。
以前私が、侍者日記で紹介した
生きねばや 鳥とて 雪をふるい立つ
という句に深く感銘を受けられたようで、この「ふるい立つ」というところに、真に腰骨が立つのだというのであります。
先日の講義では、興味深い話をしてくれました。
成瀬悟策さんの本『姿勢のふしぎ』(講談社、1998年)にある話だそうです。
二人の脳性麻痺の少年の話でありました。
二人ともに体が不自由だったそうです。
つかまり立ちがやっとの程度だったのが、なんとか自分で歩ける程度までになっていたそうです。
一人の方は、途中で訓練をやめてしまいました。
「脳性マヒは天からの授かりものだから不自由は不自由として生きればよいので、無理してまで健常児に近づけたり、それを真似る必要はない」という学校の先生の教えに従ったのでした。
本には「もともと訓練がきらいだったからでした」と書かれています。
そうすると、だんだんからだが動きにくくなって立てなくなり、寝たままの生活になってしまったのでした。
もう一方の子は、その間も訓練を続けて、更によくなって、外見的には普通の子と変わらないように見えるまでになっていたのでした。
寝たままになった子は、動けなくなっただけならまだしも、夜には肩と腰の緊張がひどくなり、痛くて眠るのが大変な状態になっていたといいます。
「さらにこのごろでは、昼間でもその痛みに悩まされるようになっていました。
寝ころんだ姿勢をみると、上体が腰のところで右側凹の形に側弯して緊張がひどく、しかも凹になった腰はねじれるように前へ凸型に出ているので、仰向けになったとき肩とお尻は床に着いているのに、右の背中から腰にかけては強い緊張で弓なりに反って床から浮き上がっているのです。」
と書かれています。
もう痛くてたまらなくなってきたというのです。
「脳性マヒは天からの授かりものだから不自由は不自由として生きればよいので、無理してまで健常児に近づけたり、それを真似る必要はない」
という言葉は、一見すると素晴らしい理念にも思われます。
しかし、そのありのままでいいという考えは、実に問題なのであります。
奘堂さんは、
「自分が自分らしく(楽なように)(自然に)」では、どんどん歪みがひどくなるだけで、そのような「楽」「自然」「ありのまま」「(自分の思う)個性重視」では駄目であって、
「これらを越えないと、「ますます歪んでいく」辛い生きる姿勢を越えられないのだ」と説かれていました。
その数日前には、曹洞宗の藤田一照さんにも坐禅の講義と実習をお願いして学びました。
今回は、おもに呼吸について教わりました。
呼吸を三つの段階に分けて説明してくれました。
先ず第一は、私たちが普段日常に行っている呼吸です。これは、浅くて不自然な呼吸になっています。
第二は、呼吸法などを通じて、なんとか意識して呼吸しようとするものです。
その二つを超えたところにこそ、三番目の本当の自然の呼吸があるという話がございました。
坐禅の時に、ありのままの呼吸でいいと説く場合もあります。
もちろんのこと、普段の呼吸をただ見つめるだけでも,、散乱した心を落ち着かせる効果はあります。
しかし、その呼吸は、普段の悪い姿勢で行っている浅い呼吸なので、そのままでいいと安住してしまってはいけないのであります。
そうかといって、あれこれと呼吸法を熱心に行うのは、それはそれなりの効果はありますものの、皆作為的な呼吸であり、本当の自然な呼吸ではありません。
一照さんは、曹洞宗の坐禅が、ありのまま、そのままでいいと安住してしまっているのは問題だと指摘されていました。
私たち臨済宗の坐禅では、丹田呼吸や数息観など意識的な呼吸にとらわれている傾向があります。
その二つを超えたところにこそ真の自然な安らいだ呼吸があるのだというのです。
「ありのままでいい」という言葉は、今の自分を認められずに苦しんでいる方には救いになる言葉だと思います。
しかし、その言葉だけを受け取ってしまって、そこに安住してしまうと、間違いを犯してしまいます。
やはり、これではいけないぞと起ち上がる、起き上がろうとする意欲が必要であります。
その「起ち上がるぞ」という気がはたらくときにこそ、腰骨がすっと立つのであります。
奘堂さんは
起きねばや 鳥とて雪を ふるい立つ
というのであります。
横田南嶺